SHIZUOKAが熱い、ということは以前から聞いていた。
誰にどう熱いかというと、模型ファンの間で聖地として崇められているのである。

たしかに静岡県には日本を代表する模型メーカーが集中している。スケールモデル(現実に存在する機械をほぼ忠実に縮小した模型)の雄はやはりタミヤ。赤と青のツインスターのロゴはあまりにも有名だ。飛行機・船舶に強いハセガワもある。私ぐらいの世代には「合体ロボ」などの架空世界のキャラクターモデルの印象が強いが、アオシマはもちろんスケールモデルの有力メーカーでもあり、近年は小惑星探査機はやぶさを商品化してヒットを飛ばした。金閣寺や陽明門などの古典建築を模型化するといった独自商品の開発を続けてきたフジミもある。キャラクターモデルではガンプラという有力商品を擁するバンダイもこの静岡県にバンダイホビーセンターを置いている。すでに解散してしまったがロボダッチ・シリーズで一世を風靡したイマイだって静岡の会社だった。
単に会社が集中しているというだけではなく、静岡模型教材協同組合という団体を作って静岡県の模型会社は団結している。その成果の1つが、4社合同という前代未聞の企画ウォーターラインシリーズというヒット商品であり(後述)、もう1つが静岡ホビーショーだ。1959年の生産者見本市を第1回と数えれば、2011年5月にツインメッセ静岡で4日間にわたって開催されたのが記念すべき第50回ということになる。それを記念して刊行されたのが『静岡模型全史 50人の証言でつづる木製模型からプラモデルの歴史』である。
模型ファン必携の本といえるだろう。そして、必ずしも模型ファンというわけでもない私でもこの本は非常におもしろく読むことができた。戦後日本のものづくりの歴史がこの1冊に凝縮されていると思ったからだ。

模型産業の歴史は、第二次世界大戦を境に大きく変わる。ざっくりと書いてしまえば、戦前は木製模型の時代、戦後はプラモデルの時代である。製造業全体がプラスチック化の方向に動いていったことや、趣味嗜好がアメリカナイズされる傾向など、さまざまな要素が重なった結果だろう。その中には、明らかな戦争の影響もあった。戦前は、国策として児童が模型飛行機を作ってそれを飛ばすことが奨励されていたのだ(授業カリキュラムにも組み込まれていた)。戦後になってGHQは日本における一切の飛行機製作を禁止した。この施策は模型飛行機の禁止にまで及んだのである(1948年ごろまで継続)。このため木製の飛行機を主に手がけていた模型メーカーは打撃を受け、新たな商品を開発しなければならなくなった。それが艦船模型だったのである。
やがて、模型の一部を木材ではなくプラスチックで代用するセミプラスチックモデル、発泡スチロールのフォームプラの試行錯誤時期を経て、1958年にマルサン商店(東京都台東区)が日本初のオールプラスチックモデルである「原子力潜水艦ノーチラス号」を発売する。静岡の模型メーカーはやや遅れ、1960年にタミヤが「1/800大和」で初めてオールプラスチックモデルを実現、翌年にはアオシマ、ハセガワもそれに続いた。木工都市だった静岡がプラ模型の街に変わった瞬間である。
タミヤの前社長・田宮俊作(現会長)には『田宮模型の仕事』という著作があり、その中でもプラスチック成形の要である金型工場を確保するため、さんざん苦労したことが書かれていた。この苦悩は、木製からプラスチックへと転向したすべてのメーカーが共有したものだったようだ。株式会社ハセガワの二代目社長・長谷川勝重はそのころの苦労をこう語る。

――当時の金型屋さんは強いなんてものじゃない。わかった、作ってやるよと引き受けてくれたものの、待てど暮らせどちっとも出来上がってこないのです。専務が日参するのですが、やってるよ、任せろ、の一点張り。なにしろ、行くと金型を見せるのに、こちらが帰るとなると仕舞っちゃう。ごまかされていたのですね。にっちもさっちもいかなくなって、金型ができるまでやはり1年半ぐらいはかかりました。


静岡プラモデル草創期の1960年代の主力商品となったのは、木工時代からの貯金を活かした艦船、戦記漫画のブームを受けて流行した戦闘機、モータリゼーションの勃興を受けて車の模型である。
後年タミヤを支える大黒柱となったミリタリーモデルは、1961年に最初の「1/35パンサータンク」が発売された(のちにミリタリーモデルの世界標準となった1/35のスケールは、パンサーの躯体に電池とモーター、ギヤボックスを収納するために偶然選択されたものだった)。またジオラマブームのきっかけとなる「1/35ドイツ戦車兵セット」が1968年に発売される。当然のことながらこのころは海外で開発されたもの、特に兵器に関する資料は乏しく、各社とも血眼になってそれを探した。1967年に当時流行していたスロットレーシングカーの売り込みのためヨーロッパを訪れた田宮俊作は、イギリスのアバディーン戦車博物館で実物のパンサー戦車と出会い、フィルム100本、3000カットもの写真を撮って持ち帰り、技術者に正確な資料として手渡すのである。タミヤのスタッフはイギリスのボービントン博物館にも取材のため何度も訪れているが、本書第二部に収録された証言によればそれを仲介したのは同博物館の館長と懇意にしていたアニメーターの大塚康生だったという。
1971年からアオシマ、タミヤ、ハセガワ、フジミの4社が合同で商品開発を開始したのがウォーターラインシリーズだ。艦船の喫水線(水中に入る部分と水上に出る部分の境界線)から下の部分を省略し、水上部分のみを模型化した洋上模型のシリーズである。4社が1/700でスケールを統一し、グレードを競い合った結果2011年までの40年間で461隻の艦船を世に送り出した人気商品となったのである(フジミが組合を脱退したため、現在の参加企業は3社)。本書にはこの461隻の全リストも掲載されているが、壮観だ。
ウォーターライン開発にあたっては元日本海軍の軍人や艦船模型の研究者に意見を求め、正確を期そうとした。しかし現実を超えてそびえる記憶の壁が開発者を阻むのである。


――厄介な事に、残されていた公式図面に沿って造っても「写真とは違う」というクレームも受けたりするのです。大きな艦船が写真に写った場合、実はレンズによって全体が圧縮されたりします。しかし、お客様の持つイメージも大切ですから、艦船としてのデフォルメも必要となります。プラモデルは実物を忠実にスケールダウンすれば良いという単純なものではなく、いかに実物の持つイメージを大切に表現するか、そのバランスが重要です。(株式会社タミヤ 常務取締役 曽根雅詞)

本書の第1部には、このように1960~70年代のスケールモデル全盛期を支えた技術・開発者たちや、80年代以降に人気が爆発したキャラクターモデルの製作に携わった人々など、22の証言が収録されている。とてもすべては紹介できないので、印象的な言葉を断片的にお見せしよう。字数の都合細かいディテールは省くが、現場の熱意をなんとなく感じていただければ幸いである(マニアの方は『そうだったのか』と感心してください)。

――合体巨艦ヤマトの企画は、戦艦大和が、日本人の感性にマッチしたキャラクターそのものだった事から生まれました。しかも、マッハバロンで「合体マシン」のノウハウと登録商標を持っていましたから、「よし、戦艦大和を合体にしちゃおう」というむちゃくちゃな企画が通ってしまいました。艦首には零戦、主砲はタイガー戦車、艦体はスーパーカー、など「人気メカのいい所取り」のデザイン構想をまとめ上げます。(中略)雑談中に「大和と武蔵は同形艦だね」なんて思いつきの一言かが「武蔵」を合体させることになり、艦橋ロボットにして名前は「ムサシ」で「ヤマト」の相棒にしたらもっと面白くなりそうだ。(株式会社青島文化教材社 ホビー事業部 管理部・広報 シニアマネージャー 堀井康吉)
――平成16(2004)年には思い切って、航空自衛隊のF-104Jを屋上に置き、設計スタッフがすぐに見に行けるようにしました。
(株式会社ハセガワ 専務 長谷川勝人)
――(経理部員として入社して)木型職人になりたいと重い、入社早々経理部長に転属を願い出たら、「ダメ」。1年経っても転属出来ないので、日報に希望を書いたり、昼休みには自分のパイロンレーサーのエンジンをかけたり飛ばしたりしていました。(株式会社タミヤ 企画開発部次長)
――その後、私はザクを手掛けましたが、1/144、1/100、1/60、1/72なども含め、10種類ぐらい担当したので、「ザク松」などというあだ名をつけられてしまいました。(株式会社バンダイ ホビー事業部 金型チーム 村松正敏)

本書の50の証言には、模型メーカーの当事者だけではなく、マブチモーターやセメダインなどの関連企業の協力者、プロモデラーの山田卓司や情景作家の金子辰也、水木しげる、リチャード・クー、石坂浩二などの有名人モデラーたちが登場している。さらにマニア心をくすぐるのは、静岡模型の箱絵を彩ったアーティストたちも思い出を語っていることだ。名前のみ、列挙しておく。田宮督夫、大西将美(将は旧字)、高荷義之、上田毅八郎、小池繁夫、梶田達二、川上恭弘、佐竹政夫、根本圭助(小松崎茂を語る)の面々だ。
アーティストのコーナーはもちろん、全体を通して美しい箱絵がカラーで載せられており、当時を偲ぶことができる。静岡ホビーショーのページのように文字の資料性が高いページもあるのだが、なんといっても嬉しいのは巻末にハセガワ(1963年度)、タミヤ(1965年度)、アオシマ(1967年度)のカタログが復刻採録されていることだろう。これで静岡模型草創期の空気を知ることができる。
模型制作は残念ながら現在ではややマニアックに傾いた趣味になっている。もう一度若いファンを増やし、模型人口を増やすための提言も本書には多く含まれている。
くりかえしになってしまうが、模型ファンには間違いなくお薦めの本であるし、ものづくりに関心がある人にも手にとって関心を持ってもらいたい。考えるヒントがここにはたくさんあると思うからだ。

以下は余談。本書に出てきた、1974年の七夕豪雨で模型屋の倉庫が水害に遭い、水浸しになったプラモデルを小学生が見に行った、という挿話をどこかで聞いたことがあると思ったら、株式会社典雅の松本光一社長だった(『TENGA論』)。TENGAの開発者もプラモデルから出発していたのである。いや、誰もがここからスタートして、ものづくり立国を支えていったのだ。
(杉江松恋)
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