言うまでもなくこれは俵万智のあの作品からとられている。
「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」
「君」が食べたのがどんなサラダだったのかは知らないが、気に入ってもらえたようでよかったよかった。おかげで日本記念日学会も認める記念日が1つ誕生したわけである。
逆に、初めて対面する食べ物を前に「この味はダメだ!」と拒絶した人々もいる。
江戸時代末期、日本にやってきた欧米人から接待を受けたり、逆にかの地を来訪したりして慣れない西洋食を口にする羽目になった侍たちである。
熊田忠雄『拙者は食えん! サムライ洋食事始』は、そんな武士たちがいったい何を口にし、どのような感想を漏らしたかを調べてまとめた本である。鎖国という長い断絶期間を経て和食以外の食文化に触れたひとびとがどのような反応を示したのかがわかって、非常におもしろい。
この本によれば、海難事故のために異国に漂着したなどの特別な事情を除けば、正式な西洋風の宴席が催され、まとまった数の日本人がそれに出席した記念日に当たるのは、1854(嘉永7)年3月27日(陰暦2月29日)である。この日、日米和親条約調印を前にして、アメリカの東インド艦隊司令長官マシュー・C・ペリーが主催する午餐の席が設けられたのである。このときに参加した日本人は約70名、シャンパンやワインを痛飲してみなしたたかに酔い、へべれけになって帰っていったらしい。アメリカ人たちが驚いたのは、日本人たちが残り物を紙に包んで懐に入れ、持ち帰ろうとしたことだが、これは当時の習慣で別に珍しくも無作法でもない。しかし中には鶏の丸焼きを1羽そのまま懐に入れようとした者もあったらしい。というかそれは入るのか。
次に重要なトピックは、日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府の使節団が太平洋を渡ったことだろう。このときの正使は幕府の外国奉行・新見豊前守正興だったが、使節団が乗ったアメリカ海軍のポーハタン号に随伴して、幕府が買い入れた軍艦咸臨丸が随行した。提督は木村図書喜毅、艦長はあの有名な勝安房(海舟)である。この木村提督の従者として、福沢諭吉も乗船していた。
ポーハタン号、咸臨丸とも日本人は相当数の米や醤油、味噌などを積み込み、干物や漬物で食事をとっていたらしい。ただしポーハタン号はアメリカ籍の船なので主導権は向こう側にある。樽に入れた漬物や味噌、醤油の匂いがしみだし、アメリカ人水夫が腐っているから捨てろと主張して悶着があったことが伝えられている。ポーハタン号では1日2食が艦長から日本人に供された。それは当然西洋食で、乗船した医師の村山伯元は日記に以下のような記述を残している。
「一月一九日(陰暦。
肉が2種類も出されていて、なかなかに旨そうだ。
咸臨丸は途中で寄航をせずに直接米本土を目指し、ポーハタン号はハワイを経由して12日遅れでサンフランシスコに入港した。到着した一行を歓迎するパーティが市内で催されたが、そのときのメニューを使節団の玉虫左太夫が書き残している。熊田が現代語訳に直して紹介した部分を引用しよう。
・乾蒸餅(乾いたパンのこと)
・氷水(パンと氷水は初めからテーブルの上に用意されている)
・吸物(白い大皿に入っている。味が甘くて臭い。材料は分からず)
・鮭(餡かけ。油臭い)
・牛(塩煮で葛粉が掛けてある。油臭いが食べるに足る)
・豚(ポテトに小麦粉を摘まみ入れたものを加えてあるが油臭い)
・小芋(むかごのこと。皮をむいて塩で煮てある)
・菜ひたし(これも塩だけで旨くない)
・飯(わが国のものと変わらず)
・蒸餅・饅頭(中に餡が入っていて味は酸っぱい。ブドウから作ったという)
やたらと油臭い、油臭いといっていることが判るだろう。この他の食に関する愚痴を、現代語風に超訳してお伝えする。
「やっと料理が出た。でも全部牛か豚か鶏じゃん。どの皿もくっせーもんだから食うなんてチョームリ。みんな残したし」(福島義言さん・19歳)
「お前らこれ好きだろって煮魚が出てきた。でも塩気は全然なし」(木村鉄太さん・31歳)
「どれも塩味が薄くて食えたもんじゃねー。テーブルの上にいろいろ調味料が置いてあったけど、うちの味と全然違うからダメ。困ったもんだ」(玉虫左太夫さん・37歳)
「なんかさー、外国の料理って、見かけはたしかにチョーキレーなんだけどー、で、ご馳走だってのもわかるんだけどー、どーしてフライもスープも塩味がぜんぜんしないわけ? で、あのバターってのがくっせーんだ。中には喜んで食ってるやつもいたけどさー」(柳川当清さん・25歳)
「煮物は塩気が足らん。ふざけるな! 調味料をテーブルに出しとけばいいというものではない」(野々村忠實さん・43歳)
なんか大人げないが、気持ちはよくわかった。本書の著者である熊田は、使節団の日記を分析し、日本人たちが口に合わないとして洋食を嫌がった理由を3つに分類している。1つめは、パンや肉、バター、コーヒーなどどんなものか見当もつかない未知の食べ物が出てきたこと、2つめは料理の発する臭いで特にバターや獣脂が嫌がられた。3つめは味付けで、ほとんどの日本人が塩味の薄さを指摘している。
ポーツマス号・咸臨丸の訪米使節団の後、幕府はヨーロッパへも数回にわたって使節団を派遣している。最初の遣欧使節団は(竹内使節団)が訪米使節団帰国の翌年の出発である。このときの船には前回の経験者が乗船したのだが、またしても一行は大量の味噌を船内に持ち込み、東南アジアを航海中に腐らせて捨てる羽目になってしまった。記録を見ると、航海の初めには食に対する不満を垂れ流していた者が次第に滞在地の味に慣れ、いっぱしのグルメに育っていくケースもあったようである。その代表例が、第3回(ヨーロッパへの使節団としては2回め)の池田使節団に参加した岩松太郎だ。彼はパリやマルセイユで美食になじんだために、船上で供される洋食がまずく感じられるようになったと文句を言い始めるのである。またしても超訳でお届けする。
「煮物も焼物も全部ダメ。っていうかマルセイユで美食に慣れちゃったからさ。余計にマズく感じるわ」
「パンと牛肉と羊肉が出たんだけど、見ただけでげんなりして手もつけなかったよ」
「この船の料理、食えたもんじゃねー。
人間って、短期間にここまで増長、いやいや成長するんですね。なんとなく日本人がお調子者扱いされるルーツが見えたような気がした。
こんな感じで日本人と洋食との遭遇を描いたノンフィクションである。明治に入って洋食は、横浜のような外国人居留地文化の栄えた場所を中心として広まっていった。草間俊郎『ヨコハマ洋食文化事始め』によれば、日本人が初めてバターやパンを販売する店を出したのも横浜である(ただし最初は日本に滞在する外国人相手の商売だった)。江戸時代の日本では肉食が表向き禁じられていたが、「薬食い(養生食)」という名目で存続しており、まったく絶えたわけではなかった。それが一般化し、一般庶民でも肉食をするようになったきっかけは、やはり横浜に起源を持つ牛鍋の流行があったからである。明治に入って欧化の啓蒙活動が進み、洋食のレパートリーも増えていく。1890年代に発行された婦人雑誌にはカレーなどのレシピが登場しているし(小菅桂子『カレーライスの誕生』)1907(明治40)年ごろから後の日本式とんかつの元になるポークカツレツが流行したこともわかっている(岡田哲『とんかつの誕生』)。
定食評論家の今柊二は、徴兵で軍役を体験したひとびとが退役して軍隊時代の味を懐かしんだことがきっかけで洋食文化の地方拡散が促進されたという説を唱えており(『定食学入門』)、傾聴に値する。高森直史『海軍食グルメ物語』には旧海軍式の洋食調理方法が多く紹介されているが、今では和食として日本人に親しまれる「肉じゃが」の起源が海軍式洋食調理法にあるという説は有名である(異説あり)。
こうして和食の中に入ってきた洋食を、咸臨丸やポーツマス号の乗員だったひとびとも後には口にしたはずだ。
残念ながら記録はなく、それはわからないのである。
(杉江松恋)