三池崇史監督の映画「神さまの言うとおり」が現在公開中です
マンガの第一部、3巻までを実写化しています。

原作マンガは、つじつま合わせがほとんどされていません。

理屈が全くない。絵面が面白ければなんでもありです。
「だるまさんがころんだ」 死亡。
「うしろのしょうめんだーれ」 死亡。
なんでか全くわからない。ひょいひょい死ぬ。希薄すぎる。
死んでも、そこまでキャラに感情が伴っていない。
びっくりするほど死が軽い。めきめき人が死ぬ『神様の言うとおり』 - エキレビ!

主人公・高畑瞬が通う高校に突如現れた、だるま。
「だるまさんがころんだ」で、振り向く前にスイッチを押さなければ死亡。
その後もまねきねこ、こけし、しょうべんこぞうなど、次から次へと理不尽なゲームや用意され、出会った仲間たちは次々に死んでいく。

極限状況の中、果たして彼らは生き残れるのか。
 
……と書くと、死が間近にあるヒリヒリ感、生きるための物語性がありそうに見えますね。
ないです。
 
物語は多くの場合、順序だてがあります。
理由・原因→(伏線)→キャラの感情→現実(実際の行動)→結果
これが崩壊しています。「現実」と「結果」しかない。
「理由」と「キャラの感情」は、物語にテーマを添える根幹とされることが多いです。
しかし作者はここに興味が無い。

だるまさんが転んで振り向いて頭破裂したら「面白いよね」。
あとは「生きているか」「死んじゃったか」の結果だけです。
誰が生き残ったかにも、ほとんど理由がない。

もう一人の主人公とも言える天谷は、同じ学校の人間を殺してしまうような狂人。

彼は自分や人が死にそうになると、楽しくなって、股間をもみもみします。
またメインヒロインの秋元は、突然「死の間際になると興奮する」という性癖を暴露します。
それらがストーリーに一切関係ない。

理屈がないものを描くのは、大変難しい。
だから、このマンガは面白い。
今だけAmazonKindleで一巻が無料なので、読んでみてください。

さて、「事実」と「結果」だけの、ナンセンスなマンガを映画化するのは、極めて困難です。
原作の高畑は、みんなを助けようと戦うヒーローのように見えます。実は天谷並みにクレイジー。
「箸、眼に刺したらどうなるかな?」
やるやらないじゃなく、できるできない、というのを考えるシーンでのセリフ。
この思考は、映画では再現していません。
ちゃんと彼は、理屈を組み立てて、感情をもって行動しています。


では三池崇史は原作の持つナンセンスさを、映画独自の形で表現するためどうしたか。

天谷(神木隆之介)が、猫背でくすくす笑いながら、高畑(福士蒼汰)を見つめます。
「お前は俺と同じにおいがする」
原作でもあるセリフです。もっとも原作の天谷は、デスゲームを本能的に楽しむだけの、サルみたいなキャラです。

一方で、映画の天谷は、原作よりはるかに高畑に固執します。
殺意と愛情は同じ。
天谷が言った時、ぼくの腐男子脳にスイッチが入りました。
この映画、BLだ。

ヒロインの秋元(山崎紘菜)は、いつも高畑と一緒にいます。幼馴染のちょいラブ関係です。
途中合流する高瀬(優希美青)も、高畑の中学校の同級生、という設定に変えられており、やっぱりちょいラブ関係です。
けどここは、そんなに掘り下げられない。


むしろ、ニヤニヤしながら最後の最後まで高畑を目で追い続ける、天谷の描写がやたら目立つ。
生死の境を綱渡りする二人の関係を、オチもイミもなく、三池崇史がねちっこく撮る。
二人の世界の映画になっています。

惜しむらくは、自転車で指とばすシーンはカットしないで欲しかった、ということ。
高畑が普通の「鬱屈をもった高校生」になっている。これじゃ、天谷が高畑に固執しない。

あと、映画独自のデスゲームが入ったことで、原作とテイストが全く変わっています。
キャラに感情を入れるために必要だったのはわかる。これを入れることでマンガの無感情さ、軽さは消えました。
ダルマやまねきねこで、人が死んでも適当に笑えた部分が、よくも悪くも感情的になりました。

一方で、電撃ネットワークみたいな髪型の奥平と、ひきこもりオタクのタクミを出したことはとても良かった。
映画だけ見ていると「誰これ?」となるでしょう。
何もしないもの。
宙ぶらりん感が、ナンセンスを引き立てました。
(原作では重要な役割を……そうでもないや)

賛否両論、わかれてほしい作品です。

(たまごまご)

映画「神さまの言うとおり」
編集部おすすめ