
フジモンの句のどこに覚悟が足りないのか?
名人三段への昇格に失敗したフジモン。発想の飛ばし方は、いつもすごいと夏井先生は褒める。
茶畑や朝のサリーの色ぬくし
インドのサリーでう紅茶を摘む光景を詠んだという。フジモンはこの句をグーグルアース俳句と命名する。なるほど、日本の写真からインドの茶畑までいくのだから確かにすごい。夏井先生も素直に感心している。しかし、この句にはまだ決断が足りていないと言う。
まず、「茶畑」という言葉があまりにも日本らしい言葉だと説明。それにより、サリーがただの外国人かと想像させてしまう。さらに「色ぬくし」のぬくしという言葉の意味合いがまだ日本を引きずっているという。添削後がこちら。
紅茶摘む朝のサリーの鮮やかに
紅茶と言い切り、日本ではないということを最初に説明することによってインドの茶だということがわかるようになった。
インドの句を詠むなら季語も切れ!
さらに、この句には俳句に必要と思われる季語がない。これに関して夏井先生は「無季の俳句も現実にはあり得る」と熱弁。そこで調べてみたところ、インドには四季がなく、あるのは“夏、雨季、冬”の三つだけらしい。そうなると日本の季語をインドの句に入れるのは、確かに違う気もする。入れてしまうとどうしても日本らしさが残ってしまい、インドの純度が下がってしまう。それを恐れて夏井先生は思いきって季語を切り、このように“無季俳句”にしたのではないだろうか。これが覚悟という奴だろう。
夏井先生の句
夏井先生が過去に詠んだ句の中にこんなものがあった。
新大久保の大根キムチ色の空
韓国街と言われる日本の街、新大久保の夕焼けは韓国のカクテキのような色だった、という様に解釈させてもらう。「大根漬ける」は冬の季語なので、無季ではない。
だが、漬物を仕込むときの手の冷たさという季感よりも、遠く離れた地の冬の厳しさを想像させる句だ。
いつも着物を着た日本情緒の塊のような夏井先生も、このように外国に思いを寄せた句を詠む。今回夏井先生が語った、俳句の自由さとそこに持ち合わせなければならない覚悟の片鱗を感じた。
(沢野奈津夫@HEW)