巨人以外は考えてない、在京セ希望でしたから、セ・リーグの球団に行きたかった。

先日、元木大介氏インタビュー資料のひとつで89年ドラフト会議の『プロ野球ニュース』映像を観ていたら、指名選手たちがそんなコメントを残していた。


それだけまだセ・リーグとパ・リーグの人気格差が大きかった時代の話だ。この年、野茂英雄が史上最多タイの8球団指名を受け、近鉄が交渉権獲得。
その抽選に外れた大洋が指名したのがのちの“大魔神”、佐々木主浩である。「社会人のヤマハさんに行きたかったんで、今は指名されて戸惑っています。人と違いまして腰に不安を持ってますんで、自分としては自信がありません」と虚ろな表情で記者会見に臨む、若かりし日の佐々木は新鮮ですらある。

佐藤和弘、瞬く間に人気者に


そして、オリックスの外れ1位指名を受けたのが当時24歳の佐藤和弘だった。
母ちゃんが作ってくれた焼きおにぎりを食べながらドラフト中継を見ていたら、自分の名前が呼ばれて鼻からご飯を吹いた男は、他の選手のようにスーツではなく、熊谷組のスタジャンに金色のネックレス、うっすらと無精髭を蓄えたパンチパーマ姿で取材陣の前へ。

80年代後半からパ・リーグにも“新人類”や“トレンディエース”といった若いスター選手が出現していた時代の変わり目、昭和から平成へと球界も転換期だった89年に、ネタになりそうなド昭和の風貌の暑苦しいルーキーが登場したのだ。

なんか最近の若いプロ野球選手はギラギラしてない、ツルっとしてるよねぇと嘆いていたマスコミは当然飛びついた。はっきり言って、佐藤はドラフト前は世間的にはほぼ無名の存在。それが、ドラフト直後の会見映像で瞬く間に人気者へとなる。

「ちらっと名前言わねえかなあなんつって見てたんですね。そしたら、ねぇ。
おふくろはもう泣いちゃって、妹はやめたらーなんてつってね。喜んでたって言うかねビックリっていうあれですね。(オリックスは)テレビで観た中では、自分のタイプ的に合ってんじゃないかなあ雰囲気が、そういう感じしますね。あの…パンチパーマでもいいんじゃないか。そういうところですね」

「人間一生に一度は誰でも輝く時期があるっていうじゃないですか。それが今ですからね自分!」

「(電話が鳴り)ハイ!ハイ!上田監督だ…!(報道陣爆笑)あ、こんばんは!佐藤です!はじめまして。あのやっぱりちょっと明日会社に行って来まして、会社の方と相談して決めることですけども、自分の心はひとつです!(報道陣爆笑)」


チーム内には冷めた空気も?


スポーツニュースや珍プレー好プレーでも繰り返し放送されたこのシーン。
ちなみにパンチパーマは、社会人1年目に歌舞伎町に飲みに行った時に学生と間違えられたため、童顔を隠す意図もあったという。

その卓越した話術で人気者になったルーキーは、イチロー入団前の地味なイメージがあったオリックスの宣伝マンのような役割を果たすことになる。取材は可能な限り受け、ファンサービスも積極的にこなす。「 (今の気持ちを) マラソンに例えるとロサ・モタが、国立競技場のスタートラインに立って手首足首を廻しているというところでしょうか」というキャンプイン前の台詞は語り草だ。

とは言っても、まだ野武士のような先輩たちが睨みをきかしている時代、チーム内には「こいつ、ペラペラ喋りやがって」的な冷めた空気も感じたという。

ちなみに佐藤の2年後にオリックスからドラ1指名された田口壮はルーキー時代にヒットエンドランのサインを見逃して、先輩選手から胸ぐらを掴まれベンチ裏で「おまえ舐めとんのか」と説教されたと自著の中で明かしている。
あの頃のオリックスにはまだそういう古豪・阪急ブレーブスの空気が残っていたのだ。

1年目は活躍も……その後は出場機会失う


ちなみに故・上田利治監督は「野手では即戦力ナンバーワンはウチは佐藤いう評価だったんですよ。非常にバッティングが良くて三拍子揃った好選手いうことでね」とコメントしていたが、佐藤本人はプロ入り直後から「守備と足は通用しない。レギュラーは厳しい」とあっさり悟ってる。

この辺のスカウティングのユルさにも昭和を感じてしまう。とにかく1軍で生き残るには打つしかないと佐藤はルーキーイヤーから42試合142打席で打率.331を記録。ブルーサンダー打線の中で存在感を放った。

しかし、2年目から故・土井正三監督が就任すると野球観の違いというか、人間的にまったく合わず出場機会を失う。たまにお立ち台に上がると「そうですね、下痢するまで飲みたいです、今日は!」と明るいキャラは健在だったが、3年目の92年オフにはトレード志願するも、球団が数少ない人気選手を手放すことはなく残留。
93年にはわずか出場3試合に終わり、気が付いたらもうすぐ30歳というところで転機は訪れる。故・仰木彬監督の監督就任である。サラリーマンもプロ野球選手も、上司が代われば人生が変わる。

球史に残る「パンチ」への登録名変更


さっそく行われたのが球史に残る「パンチ」への登録名変更だ。
一緒に登録名を変える何の実績もなかった若手選手が批判されないように、強烈なキャラのパンチが風よけになるために。
すでに坊主頭で最初は渋った佐藤も仰木監督の行きつけのヘアサロンを紹介され、これを受け入れる。この時、球史は動いたのである。

結局、94年限りで恩師・仰木監督から芸能界入りを薦められ現役引退。実働5年で149試合。通算71安打、打率.274、3本、26打点。上田、土井、仰木とともに戦った監督たちはすでにこの世にはいない。

あの「自分の心はひとつです!」というドラフト時の映像は、パンチ佐藤の引退後10年近く経過してから、アルバイト情報誌フロムエーのテレビCMで使用された。

まさに野球ではなく言葉ひとつでスターになった男。こんな選手はしばらく現れないのではないだろうか。なお23年前、ともに登録名を変更した無名の若者は、今も「イチロー」としてメジャーリーグでプレーし続けている。
(死亡遊戯)


(参考資料)
『プロ野球ニュースで綴るプロ野球黄金時代Vol.4 運命のドラフト』(ベースボールマガジン社)
『読む野球No.8』(主婦の友社)
『プロ野球・二軍の謎』(田口壮著/幻冬社新書)

※文中の画像はamazonよりパンチ佐藤の迷語録人生
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