【増田俊也 口述クロニクル「茶の間を変えたコメディアン 欽ちゃんのぜ~んぶ話しちゃう!」】#11


 作家・増田俊也氏による連載、各界レジェンドの生涯を聞きながら一代記を紡ぐ口述クロニクル。待望の第2弾は、「視聴率100%男」として昭和のテレビ界を席巻したコメディアンの萩本欽一氏です。


  ◇  ◇  ◇


増田「当時のお住まいは」


萩本「丸山町って文京区の小石川植物園の隣」


増田「映画館はどちらまで行かれたんですか」


萩本「巣鴨」


増田「結構ありますね」


萩本「うん。40分ぐらい。テクテク、テクテク歩いて」


増田「それを考えると、まあこういう言い方も逆説的になりますけど、貧乏であったことも幸運だったんですね」


萩本「貧乏はね、ラッキー。貧乏しなきゃ成功してない。神様がね、はい、貧乏してんのね。はーい、インチキしなきゃね。はい。あなたの望みのところに行きますよって言ってる気がする。ですから、悲しい時とか、ちょっとこんちくしょうと思う時は、俺全部の窓開けて、大空、星見たりね。毎日は空見ない。お願いする時だけパッと開けて『神様、見てるよね』って言って。何かしてくださいって言わないの。

『見てるよね。俺ひどいだろう。以上です』ってお伝えだけする」


増田「それは小中学生のときだけじゃなくて?」


萩本「大人になってもそうです。だから大丈夫です。一度も神様のところへ手合わせたことないし、初詣も行かないし」


増田「先ほどお金がないから友達もできなかったっていうふうにおっしゃってましたけど、やっぱりそういういじめではないけれども、ちょっと行きづらいような学校体験をされたっていうのは、今でもクラスの中でなかなか溶け込めない子っていっぱいいると思うんですね、日本中に。欽ちゃんの存在自体がそういう子たちの励みになりますね」


萩本「アルバイトしてっから勉強できないんだよね。勉強する時間がなかったんだもんね。でもね、崩れてないもんね。貧乏も結構、身になるよ。結構、いいものよ。貧乏にも運があると思ったらね、ちょっとワクワク感はありました。なんか小学校の時から。

で、高校時代も弁当なくてひとりで屋上でパン食べたりしてるときもすごく寂しかったけど」



先生も同級生も間抜けだよ

増田「そういう時もワクワクしてる部分も自分の中にあったんですか」


萩本「うん。俺、校舎の屋上に上がって、1人で空見て。『ねぇ、俺だけだよ、見てる?』って。俺だけだ、おい。同時に馬鹿だなぁ先生、って。ここへ先生が来て、『萩本やっぱり上にいたか。なあ』って座ってさ、『おい、萩本これ持て』って弁当箱の蓋を渡して。『何ですか?』って言ったら『俺の弁当を一緒に食おうじゃねえか』って半分そこに載せてくれたり、そういうことをしときゃ、後でね、俺があんたの家を建ててやんのに、そういうチャンスを逃してる先生は間抜けだよって。友達っていう友達も上がってこなかったもんね。だから、友達いらないですよ。だって有名になったらね、みんな家建ててあげなきゃならないから。残念だなぁ」


増田「そういう考えがあるんですね。

そういう考えこそが運を呼ぶ」


萩本「ラッキーだよ。だって、その時に優しい友達がいたら、家5軒ぐらい建てなきゃいけなくなりそうなんだもん」


増田「追いはぎみたいに(笑)」


萩本「友達が出てきて『おまえはずいぶん世話してやったなあ』とか言って、飯3回食わしてもらっただけで家建てなきゃならない。だからね、なんか悲しいじゃなくて、バカだなもうみんな本当に、ね。そうだね、そうだよね。神様、俺だけだろ。だからあの、なんかいい運来てくれるよねと。なんかそんな感じだったよ」


つづく =火・木曜公開)


▽はぎもと・きんいち 1941年、東京都生まれ。高校卒業後、浅草での修行を経て、66年にコント55号を結成。故・坂上二郎さんとのコンビで一世を風靡した。その後、タレント、司会者としてテレビ界を席巻し、80年代には週3本の冠番組の視聴率がすべて30%を超え、「視聴率100%男」の異名をとった。社会人野球「茨城ゴールデンゴールズ」の初代監督、2015年には73歳で駒澤大学仏教学部に入学するなど挑戦を続け、25年10月にスタートしたBS日テレ「9階のハギモトさん!」は今年4月からSEASON3に突入した。


▽ますだ・としなり 1965年、愛知県生まれ。

小説家。北海道大学中退。中日新聞社時代の2006年「シャトゥーン ヒグマの森」でこのミステリーがすごい!大賞優秀賞を受賞してデビュー。12年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞。3月に上梓した「警察官の心臓」(講談社)が発売中。現在、拓殖大学客員教授。


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