1582(天正十)年6月2日、早朝。まだ夜が十分明けきっていない頃のこと。
謀叛を起こされた信長は、光秀軍の急襲によって周囲の者が次々と倒れていく中で行く末を悟ったのか、肘に鑓傷を負うと建物の奥深くに移り、納戸の入り口の戸を固く閉ざして割腹して果てました。
これは『信長公記』にて描かれた信長の最期ですが、信長の亡骸は光秀軍の必死の捜索にもかかわらず、ついに発見されませんでした。では、彼の遺体はいったいどこへ消えてしまったのでしょうか。
実は手掛かりといえる証拠がいくつか残されています。その一つといえるのが、静岡県藤宮市に建つ西山本門寺です。地元に伝わる話によると、ここの境内の本堂奥の大柊の根本に信長の首を埋めたとされているのです。
信長の首を埋めたとされる大柊のある西山本門寺 (Wikipediaより)
本能寺の変が発生する全日、本能寺では囲碁の対極が行われていました。そのうちの一人が本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)といい、彼は囲碁棋士であると同時に日蓮宗の僧侶でした。その算砂が原志摩守宗安に指示して本能寺から信長の首級を持ち出し、西山本門寺へと運び出させたといいます。
西山本門寺は日蓮の高弟である日興の法脈を継ぐ寺であることから算砂との結びつきも不自然なものではなくなるのです。
ただし、信長の遺体の謎については異説も存在しています。
京都市上京区の阿弥陀寺には信長をはじめ、兄の信広や息子の信忠、家臣の森蘭丸ら、本能寺の変で死を迎えた人々の墓がありますが、同寺の僧侶・清玉上人が本能寺から信長の遺骨を持ち出しここへ葬ったといわれています。
信長の遺骨が持ち込まれたとされる阿弥陀寺(Wikipediaより)
本能寺の裏門から中へ侵入した清玉上人らは、織田方の武士が信長の遺体を火葬しようとしていたことから、それを見届け、本能寺の僧侶のふりをして遺骨を外へ運び出したという。
信長の菩提寺は京都市北区の総見院(信長の法名「総見院殿」からの命名)だが、ここに信長の遺体はない。あるのは、遺体の代わりにやいたという木像と同様の木像(信長公座像)のみである。
信長の遺体は果たしてどこへ消えてしまったのか。その謎を解くことが出来る人物は、これから先もあらわれないのかもしれません。
参考
- 戦国武将列伝Ω
- 近藤瓶城編 国立国会図書館デジタルコレクション 『信長公阿彌陀寺由緖之記録』第25巻 近藤出版部〈史籍集覧〉(1926 近藤出版部)
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
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