※本稿は、久保田哲『福沢諭吉 敗け続けの偉人』(集英社インターナショナル)の一部を再編集したものです。
■新聞に綴った「朝鮮人蔑視」
日本政府は、明治18年(1885年)1月9日に朝鮮と講和条約(漢城条約)を締結すると、4月18日には清とも講和し、天津条約を締結した。天津条約には、日清両軍の朝鮮からの撤兵が盛り込まれており、福沢が求めた結果とはいえなかった。
福沢に、多くの朝鮮開化派とその父母妻子が処刑されたという情報がもたらされると、『時事新報』(2月23日付)にこう綴った。
朝鮮は「儒教主義に心酔して既に精神の独立を失」っただけでなく、「支那の干渉を蒙(こうむっ)て独立の国体を失」ってしまった。「支那の風を学(まなび)て又支那人の指揮に従ひ」、ますます野蛮になっていくだろう。いや、野蛮という言葉では収まらず、「人間娑婆(しゃば)世界の地獄は朝鮮の京城に出現した」のである。これでは、朝鮮の人びとを「同族視」できず、「人民の情交に於て親愛を尽す」こともできない。
開化派の「精神は殲(つく)す」ことはなく、いずれその思いを継ぐ勢力が誕生するだろうと希望的言及もあるとはいえ、開化派を退けた守旧派勢力への憤りや怒りを情緒的に表現した。
もとより福沢は、西洋人からアジアをみれば、清は日本よりも「見栄えのする国柄」なので、日本はますます文明化を推し進め、「支那の為に蔽(おお)はれ」ないようにすべきだとの論を展開してきた(明治17年3月5日付)。
■目に余る過激発言の代償
甲申政変後には、その比較対象に開化派が淘汰された朝鮮を加えた。いまや文明化は世界の潮流であり、国家の独立を維持する道であるため、日本は明治維新を経てこれを推し進めてきた。にもかかわらず、清・朝鮮の両国は「無理に之を避けんとして一室内に閉居し、空気の流通を絶(たち)て窒息する」ようである。「西洋文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接するが為に、時に或は之を同一視」することもあるだろう。これは日本の外交に支障を来たしかねず、「一大不幸」である。日本はむしろアジアを「脱して西洋の文明国と進退を共に」すべきである(明治18年3月16日付)。
朝鮮に対しては、その後もさまざまな表現を用いた。甲申政変は残念であったが、「転禍為福(わざわいてんじてふくとなす)と称す」ように、かえって朝鮮で「国民独立の精神」が生まれる契機となるかもしれないと、ここでも希望的観測を示す(4月2日付)。他方で、朝鮮の「滅亡こそ寧(むし)ろ其幸福を大にするの方便」であるとも綴った(8月13日付)。むろん、ここでいう朝鮮の滅亡とは、開化派と敵対する朝鮮政府の滅亡を意味している。なお、この社説が過激であったために『時事新報』は発行停止処分を受けた。
朝鮮問題は、福沢の敗北に終わったのである。
■強硬発言を続けた福沢諭吉の本音
ところで、福沢はなぜ強硬で煽情的な言葉を書き連ねたのであろうか。今日のSNSさながら、書籍よりも短い文章で瞬間的に多くの読者を得られる新聞社説という新たなメディア媒体に魅了され、自己陶酔し、大衆迎合主義に陥っているようにもみえる。
当時の福沢の本音を垣間見ることができる貴重な書簡がある。明治18年4月28日、田中不二麿に宛てたものである。その内容を紹介しよう。
甲申政変に関して、開化派のクーデターに関する情報を「日本之公使は全く知らざる者にあらず」、むしろ日本政府の一部が竹添進一郎にクーデター支援をけしかけた面がある。これは日本の国益を損なうもので、「大失敗」であり「大心配」である。こうなれば「無茶」であることは承知ながら、「時事新報抔(など)にも専(もっぱ)ら主戦論を唱へ」、紙面の内容と「内実とは全く別にして我非を蔽はん」としたのだ(鈴木栄樹「福沢諭吉と田中不二麿 再論(四)」『福沢手帖』)。
■想定外だった「脱亜論」の一人歩き
福沢の得ていた情報の正確性は、ここでは論じない。重要なのは、日本政府の対応が甲申政変の要因の一つであるとみたこと、それが外交上日本に極めて不利に働くこと、その結果清の朝鮮への影響力が高まり開化派が一層追い込まれてしまうこと、などを福沢が認識しており、それゆえに『時事新報』上にあえて主戦論を書き連ねたと述べていることである。つまり福沢は、国内のみならず国際情勢や諸外国からの視線をも意識して一連の社説を書いたのである。
この内の一つに、有名な「脱亜論」もある。前項に一部引用した、明治18年3月16日付の社説がそれである。文明化に抗う清や朝鮮に対し、日本は「亜細亜全洲の中に在ありて新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亜の二字に在るのみ」だとも記されている。福沢研究者のなかでは、「脱亜論」は朝鮮の近代化に失敗した福沢の「敗北宣言」の一つに過ぎない、という評価が定着している。事実、福沢は以降一度も「脱亜」という言葉を用いておらず、掲載当時も特段話題になっていない。あくまで、時事論の一つであった。
■中国と朝鮮の近代化拒否は「日本の不幸」
また、そもそも「脱亜」という言葉は、福沢のオリジナルでもない。福沢が懇意にしていた日原昌造(ひのはらしょうぞう)がアジア諸国の連帯を志向する組織の「興亜会」に対して、「脱亜会」を設立してはどうか、と主張したのが初出とされる(『時事新報』明治17年11月11・13・14日付)。
しかし、この「脱亜論」の認知度が、いまなお高いことも確かである。『福沢諭吉事典』も「脱亜論」を項目立てし、「戦後福沢諭吉のアジア論を否定的に再評価する流れの中で、端的な表題であることもあいまってにわかに脚光を浴び、広く知られるようになった」と解説している。
今日でも「脱亜論」は、アジア侵略主義の嚆矢と理解されることが多い。本書が日本近代史の専門家に向けたものならば、「脱亜論」という言葉を特段取り上げる必要性はないかもしれない。
もちろん、「脱亜論」には過激な表現が多い。たとえば、こういう具合である。「爰(ここ)に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云ひ、一を朝鮮と云ふ」。これら両国の教育は「一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、其実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さへ地を払ふて残刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し」。そして、「悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と結ばれる。
■「アジア侵略を狙っていた」という誤解
「脱亜論」で用いられている言葉を組み合わせれば、福沢を極悪非道な侵略主義者に位置づけられる。また、近隣諸国に差別的な考えを持つ者が、「脱亜論」を用いて自説を補強することもできてしまう。
とはいえ、ここまでに述べてきたように、そもそも『時事新報』の社説を表層的に、単純に理解することは大きな誤解を生じかねず、福沢の朝鮮問題への関与や『時事新報』社説の筆致を顧みれば、「脱亜論」にアジア諸国への侵略などの意図が毛頭ないことは明らかであろう。「脱亜論」は、これまでに紹介した他の社説やその他の言説と総合して理解すべきであり、そうした文脈からみれば、福沢の敗北論の一つであった。
ただし、「脱亜論」そのものにあえて言及するならば、「日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖(いえ)ども、其国民の精神は既に亜細亜の固陋(ころう)を脱して西洋の文明に移りたり」などと、日本が他のアジア諸国と異なり文明化を進めてきたことを強調している点に着目したい。
■「脱亜論」で本当に伝えたかったこと
「脱亜論」で用いられる「アジア」には、非文明諸国という含意があることは間違いない。そこを脱しようという「脱亜論」は、清仏戦争を契機に覇権主義的な一面を出してきた(と福沢がみた)西洋に対して、日本は文明国であり、軍事侵略は容易ではないとアピールする意図を看取できるのである。福沢が社説の執筆に際して、ときに諸外国も意識していたことはすでに触れた。つまり「脱亜論」は、福沢が西洋諸国から日本の独立を守るために展開した主張でもあった、と筆者は考えている。
付言すれば、日本が「アジア」とみられることへの違和感や危機感など、すでに徳川期より一部の知識人がさまざまに思考をめぐらせていた。もちろん、明治の知識人たちも同様であり、福沢ばかりが特筆されるべき存在ではない。福沢の「脱亜論」も、こうした思想史的系譜のなかで理解する必要がある。
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久保田 哲(くぼた・さとし)
日本政治史学者
1982年東京都生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒業。慶応義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学。
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(日本政治史学者 久保田 哲)

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