■19歳で勝頼と最期を迎えた
「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消(きゆ)る 露の玉の緒」
今の私の黒髪はまるで戦乱の世のように乱れ、あなたへの果てしない思いのなか、玉の緒(命)も露のように消えようとしています。
天正10(1582)年3月11日、甲斐国・田野(たの)(山梨県甲州市)で最期を迎えた、1人の女性の辞世と伝わる。
田野は武田氏滅亡の地・天目山(てんもくざん)の麓にある。つまりこの辞世で詠まれた「はてしなき思い」の相手は、天目山の戦いで織田信長の配下・滝川一益の軍勢に滅ぼされた、武田の当主・勝頼に他ならない。
そして句を詠んだのが、勝頼の正室「北条夫人」だ。このとき、まだ19歳。夫と共に自刃した生涯はあまりに短く、苛烈だった。法号は桂林院殿。
北条夫人は北条氏康の娘で、氏康の後継者・氏政の妹にあたる。
■弱る武田に嫁いだ13歳
やがて情勢は大きく動く。元亀4(1573)年に信玄が死去し、天正3(1575)年の長篠の戦いでは織田・徳川連合軍に大敗を喫するなど、武田は衰退局面に入った。
そこで勝頼は甲相同盟の強化に乗り出した。具体的には、勝頼は正室に先立たれていたため、北条の姫を継室(後妻)に迎えたいと要望したのである。氏政はこれをのみ、妹を勝頼に嫁がせた。この妹が、北条夫人だ。
夫人が輿入れしたのは、武田の滅亡を記した軍記物『甲乱記(こうらんき)』に「(死去した時点で勝頼に嫁いで)早や七年」とあるため、天正4(1576)年の13歳のときだ。一方、『小田原編年録』では天正5(1577)年の14歳とあり、1年のズレがある。
本稿では先に成立した『甲乱記』の天正4年説をとり、13歳で結婚、7年の歳月を勝頼と過ごしたのち、19歳の若さで運命を共にしたと記すことにする。なお、勝頼とのあいだに子はいない。
同時代の女性として引き合いに出されるのが、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で話題の「お市の方」だろう。浅井長政に嫁いでから、越前の北ノ庄城で柴田勝家と共に果てるまでが15~16年。お市は二度にわたり、嫁ぎ先の滅亡を経験した。
戦国の姫として過酷な運命に翻弄された点において、お市と北条夫人はどこか響き合っている。
■追い詰められた武将の妻になった市と北条夫人
北条夫人と勝頼の結婚から2年後の天正6(1578)年、越後の上杉謙信が逝き、後継者争いが勃発した。衝突したのは謙信の二人の養子、景勝と景虎だ。世にいう御館の乱である。
景虎は実は北条氏康の息子で、そもそもは三郎といい、氏政と北条夫人の兄弟である。上杉は北条と越相同盟を結んだ際の証しとして、三郎を謙信の養子として迎え景虎を名乗らせ、景虎は謙信の姪を妻とした。
こうした関係である以上、勝頼は御館の乱において、妻の兄弟である景虎を支援する立場にあった。実際、勝頼は北条から要請を受け、越後と信濃の国境付近にまで兵を進めている。
だがここで景勝が、勝頼に和睦を持ちかけた。
夫の勝頼が実家(北条)を裏切った結果、北条夫人は梯子を外されてしまったのである。
夫人には、北条の本拠地・小田原へ帰国する選択もあったが、勝頼の元に留まった。兄・信長と敵対しながらも浅井長政から離れなかった、お市と同じである。
御館の乱の際の勝頼の選択は、結果的に裏目に出る。その理由は第一に、内乱によって越後の国力が一時的に衰えたこと。乱の勝利者・上杉景勝は、同盟相手として不十分だったのである。第二に切り捨てたはずの北条が織田・徳川と同盟を結んだこと。これによって、勝頼はこれまで以上に厳しい包囲網のなかに置かれてしまった。
武田の弱体化が進展するなか、さらなる悲劇が北条夫人を襲う。
■それでも夫のそばを離れなかった
天正10(1582)年正月、武田の有力武将・木曾義昌(きそよしまさ)が織田方に寝返った。
武田の本拠地といえば躑躅ヶ崎館が有名だが、長篠の戦いで鉄砲の威力を目の当たりにした勝頼は、防御に優れた城を築こうと、現在の山梨県韮崎市に新府城を建設し、天正9(1581)年12月から新たな拠点としていた。皮肉にもこの築城の費用等の負担が、木曾のような離反者を招く一因となった。
また、木曾は信濃と美濃の国境近くに位置する要衝・福島城(長野県木曽郡)を任されていたため、勝頼には大きな打撃だった。さらに木曾の妻は勝頼の妹の真理姫である。ここにも悲劇は起きた。
ともあれ木曾義昌の裏切りを合図としたかのように、甲州征伐の幕が切って落とされた。
同年2月19日、北条夫人が「みなもとのかつ頼うち(内)」の名義で武田八幡宮に奉納した願文(がんもん)(願いを記した文)には、裏切り者への激しい憤りと、勝頼の勝利を祈る切実な思いが綴られている。
敬って申し上げます、祈願の事
八幡大菩薩は甲斐国の本主として、武田太郎と号するようになってこのかた、代々武田家を護ってくださいました。
ここに思いがけない逆臣が現れて、国家を悩ましております。そこで勝頼様は天道に任せ敵陣に向かいました。しかしながら軍勢は勝利を得なかったため、その心はばらばらとなっています。
「木曾義昌は多くの神慮をむなしくして、みずから(人質となっていた)母を殺害したも同然です」
そのうえ勝頼様に累代仕えた重恩の者たちが、逆臣に同心して寝返ろうとしています。
神慮に誠があるならば、運命がこの時にいたろうとも、勝利を勝頼様一身に付けてください。
右の大願が成就したならば、勝頼様と私が共に社壇御垣を建て、回廊を建立いたします。
天正十年二月十九日 みなもとかつ頼うち(『桂林院殿 武田勝頼の室』丸島和洋より抜粋)
■後世が代弁した、夫人の胸の内
ただし、丸島和洋氏によると、この願文は後世に創作されたものという説が有力だ。その理由は「 」の箇所。「木曾義昌がみずから人質となっていた母を殺害したも同然」とあるが、これは勝家が木曾を討伐に向かったものの敗北し(鳥居峠の戦い/2月16日)、新府城に戻るや、人質として留め置いていた木曾の母・娘・息子の3人を処刑したことを指している。
『甲斐国志』によると処刑日は3月1日。対して願文の日付は2月19日。辻褄が合わないのである。
したがってこの願文は、夫人の心情を後世に誰かが代弁したもの、と考えられる。凄まじいばかりの怒りに身を焼かれながら、しかし、どうすることもできない日々を過ごすしかなかった、夫人の胸中が表れている。
2月下旬、武田の一門衆・穴山梅雪が家康に寝返った。
3月2日、信濃伊那(長野県南部)の武田方の拠点・高遠城が陥落。
勝頼はここに至って抗戦を断念し、城を捨て、家臣の小山田信茂(おやまだのぶしげ)が守る岩殿(いわどの)城(山梨県大月市)を目指すことにした。このとき、北条夫人を小田原に送り返すことを打診したと『理慶尼記(りけいにのき)』にあるが、夫人は勝頼から離れなかった。
■「落ちのびよ」と勝頼、拒む夫人
3月3日、勝頼は新府に火を放ち、岩殿城へ向かったが、その行程は惨憺たるものだった。以下は『甲乱記』に記された様子である。
勝頼は馬300、人足500を集めよと命じたが、1匹、1人たりとも参集せず、北条夫人が乗る輿を担ぐ者さえいない有様だった。仕方なく農耕馬に草で作った鞍を設置し、夫人に乗ってもらった。
夫人に従う女房たちは粗末な草鞋を履き、徒歩で歩いた。慣れない行軍に足が血まみれとなり、脱落者が続出した。逃亡兵も相次いだ。やっとのことでたどり着いた柏尾(かしお)(甲州市勝沼町)で一行を出迎えたのが、前述の『理慶尼記』の著者、大善寺の尼僧・理慶尼だった。
柏尾を出た勝頼一行は3月10日、小山田信茂の裏切りを知る。小山田は岩殿城へ向かう峠を封鎖してしまい、退路を絶たれた勝頼たちは行き先を天目山に変更する。そして、その麓の田野で攻撃を受け、いよいよ自害を決意する。
それでも勝頼は北条夫人に、「小田原へ落ちよ、北条の姫なら手をかす者もいる」と説得した。
「一緒になって早や七年。あなたの後を追うのが世の習い。共に自害し、死出の山、三途の川も手に手を組んで渡り、のちの世まで契りを籠めることこそ私の本意」
夫人はそういって、翻意することはなかったという。
■夫の手で逝った19歳の覚悟
夫人には4人の「付家臣」、つまり従者がいた。その内の1人は勝頼と夫人に付き添って自害する道を選び、残り3人は夫人から辞世の句と髪を託され、「私たちの最期の様子を伝えるように」との指示を受けて小田原に向かった。
丸島和洋氏は、『甲乱記』には勝頼・北条夫人を美化した内容が多く見られるとしつつも、「少なくともこの記述まで(3人が戦場を離脱するまで)は一定の事実を反映しているのではいだろうか」と述べている(『桂林院殿 武田勝頼の室』)。3人が小田原に落ち延びたことによって、のちに『甲乱記』が成立したと考えられるからだろう。
北条夫人は読経し、命を断った。勝頼が介錯を務め、直後にみずからも自刃して果てたという。
夫人のはかない生涯には、夫と共に過ごしたかけがえのない時間が、確かにあったように思える。その記憶を胸に、夫人は最期の瞬間を迎えたのではないだろうか。
お市の方や細川ガラシャほど名は知られていない。だが、戦乱のただなかを鮮烈に生きた若き女性として、忘れてはならない存在だ。
参考文献
・丸島和洋『桂林院殿 武田勝頼の室』(黒田基樹・浅倉直美編『北条氏康の子供たち』宮帯出版社所収、2015年)
・平山優『武田三代』(PHP新書、2021年)
・楠戸義昭『城と姫 泣ける!戦国秘話』(新人物往来社、2010年)
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小林 明(こばやし・あきら)
江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表
編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。
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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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