32歳で現役を引退するまで、全日本インカレやクイーンズ駅伝で結果を残し続けた後藤奈津子さん。しかし、華やかな成績の裏には常に「引退後の人生」への漠然とした不安があったという。
(インタビュー・構成=松原渓[REAL SPORTS編集部]、写真提供=後藤奈津子)
社会との壁を感じた現役時代。資格取得で視野を広げた
――32歳まで長距離の実業団アスリートとして、日本選手権や実業団駅伝などで活躍されました。現役時代はどのように仕事と競技を両立されていたのですか?
後藤:大学卒業後、「ユニバーサルエンターテインメント」という会社に所属し、29歳まで在籍しました。当時は完全にプロで、走り込みのためにアメリカで合宿するなど、競技に専念できる環境でした。そこから縁あって宮崎銀行に移籍することになり、初めて仕事と競技を両立しました。他の実業団選手と同じように勤務時間を短縮していただき、朝9時から午後3時ごろまで仕事をして、それ以外の時間で競技に取り組む生活でした。
――引退後のキャリアへの不安はあったのですか?
後藤:はい。29歳まで社会経験がなかったので、常に不安でした。アスリートには必ず引退が訪れますから、セカンドキャリアで何をしたらいいのか考え続けていました。やりたいことが明確にあったわけではなく、それも悩みの一つでした。
――現役中から引退後を見据えて取り組んでいたことはありますか?
後藤:社会に出た時に役立つように、簿記3級や秘書検定などの資格を取得していました。練習中心の生活で、関わる人はチームメートや監督、コーチ、トレーナーさんだけで、情報も競技に偏っていて閉鎖的な環境でした。そういう環境では、社会との間に大きな壁を感じましたね。
――現役時代から資格の勉強を両立させるのも大変だったのではないですか。
後藤:そんなことはないですよ。むしろ社会に出てからのほうが時間がないですし、大変だと思います。朝から晩まで働き、残業もある中で資格を取得しなければいけません。そう考えれば、アスリートのほうが時間をつくれると思います。「時間がない」と言っても、実際には「つくっていない」だけで、テレビを見ている時間や、スマホをいじっている時間を勉強にあてればいいんです。私は遠征中の飛行機の中や合宿の休憩時間なども活用していました。
引退後の不安とキャリア模索
――周囲のアスリートは引退後、どのような進路を選んでいましたか?
後藤:私が所属していた2社とも、ほとんどの選手は引退と同時に仕事もやめ、実家に帰っていました。長距離は高校から直接実業団に入る選手が多く、大学や専門学校に進学し直す人もいましたが、多くは実家に戻る道を選んでいました。その後、アルバイトでなんとか生計を立てたり、ワーキングホリデーを利用して海外で生活をする人もいました。
――引退で燃え尽きてしまい、次の進路を考える余裕がない人が多かったのでしょうか?
後藤:そうだと思います。人生は引退後のほうが長いので、資格取得や進学といった提案を一緒に考えることもありましたが、あまり響いていませんでした。大学や専門学校は、高校までとは違って自分の興味を追求する場所でキャリアの幅を広げる選択肢になると思うのですが、多くの選手は「勉強が苦手」「もう勉強はしたくない」と口を揃えていました。
――男女で引退後の選択に違いはありますか?
後藤:男性は企業に残って働くケースが多く、女性はほとんどの選手がやめてしまう傾向がありました。
銀行で芽生えた“金融の面白さ”とIFAへの原点
――セカンドキャリアへの不安に対して、ご自身の支えになったものはありましたか?
後藤:最も大きな支えになったのは、高校時代の顧問の先生の教えです。「本をたくさん読んだほうがいい。本が苦手なら映画をたくさん観るといい」とよく言われました。本は苦手だったので映画ばかり見ていましたが、それが多様な考え方を知るきっかけになり、大学時代や実業団時代にとても役立ちました。困難に直面した時、「知らないなら知ればいい」「できないなら工夫して努力すればいい」という姿勢につながり、競技以外でも役立ちました。
――引退後に銀行へ残る決断をされたのはなぜですか? また、金融のスキルはどのように身につけたのでしょうか。
後藤:引退後の人生も豊かにしたいと思い、銀行に残って金融知識や業務のスキルを身につけたいと考えました。陸上部時代は短時間勤務で簡単な仕事しか任せてもらえないため、すでにスタートが周囲よりも大幅に遅れていることも実感していました。ただ、銀行員には最低でも8つの資格が必要です。
――32歳で引退を決断された際、特に悩んだのはどんな点でしたか?
後藤:競技は好きでしたし、続けたい気持ちもありました。ただ、周囲の人よりも10年遅れて社会に出ることへの不安が大きかったです。また、陸上関係の仕事に就く場合はもう少しスムーズだったと思いますが、まったく異なる金融の世界に入るという点でも不安はありました。でも、やる前から諦めるのは違うと思い、とにかく挑戦してみようと決めたんです。
――金融の仕事を「やりたい」と感じたのはどのような瞬間だったのですか?
後藤:最初は金融業務に挑戦することが人生経験になればと考えていたのですが、自分でも意外なことに、銀行業務がだんだん楽しくなってきたんです。細かい事務は苦手でしたが、本店営業部の外国為替窓口でお客様と接するうちに楽しくなりました。旅行や家族の話から会話が広がり、資産運用の相談をしていただいた時には、「全力でサポートさせていただきたい」と思いました。それは引退してから、「こんなに好きになれるものがあるのか」と気づいた瞬間でもあり、IFAを志す原点になりました。
――もともと、人と話すのは得意だったのですか?
後藤:はい。実業団時代も幅広い年齢の仲間と交流があり、一回り歳が離れている同僚と遊んだり、今でも旅行に行ったりします。
宮崎銀行をやめて実家のある埼玉で新たに仕事を始めるために戻った後、宮崎からご夫婦で会いに来てくださったお客様がいて、「旅行ついでに会いにきた」と言われた時に感銘を受けて、素晴らしい仕事だと感じました。
――金融というと数字の世界という印象ですが、もともと得意な部分はあったのですか?
後藤:いえ、数字は得意ではなく、金融の世界にも苦手意識がありました。でも現役中の私は無知だったので、とにかく挑戦してみようと考えました。
「10年のブランク」を克服した元アスリートの強み
――新卒で就職した人に比べて社会に出るのが10年遅れたと感じた時、その意識やスキルの差をどのように克服していったのですか?
後藤:学ぶことに年齢は関係ありません。知らないことを知らないままで終わらせずに、自分で調べられること、学ぶことは徹底的に取り組み、わからないことは積極的に周囲に聞きました。スポーツで培ってきた「目標に向かって努力する力」や継続力を仕事にシフトしていくことも意識しました。
――アスリート時代の強みは、どのように仕事に生きていますか?
後藤:周囲からは、「努力する意思や、やり遂げる力が強い」「一度決めたら最後までやる」とよく言われました。中でも一番言われたのは「ガッツがある」ということですね(笑)。
<了>
アスリートを襲う破産の危機。横領問題で再燃した資金管理問題。「お金の勉強」で未来が変わる?
最大の不安は「引退後の仕事」。
中村憲剛「バナナを被った」現役時代の深意。元Jリーガー社長と熱論するセカンドキャリア
東大出身・パデル日本代表の冨中隆史が語る文武両道とデュアルキャリア。「やり切った自信が生きてくる」
東海オンエア・りょうが考えるこれからの“働き方” デュアルキャリアは「率直に言うと…」
[PROFILE]
後藤奈津子(ごとう・なつこ)
1987年生まれ、埼玉県出身。IFA(独立系ファイナンシャル・アドバイザー)。CGPパートナーズ株式会社に在籍。大学時代は関東大学女子駅伝4年連続区間賞、全日本大学女子駅伝2区区間賞(タイ記録)、関東インカレ1万m優勝、全日本インカレ1万m3位などを記録。卒業後はユニバーサル・エンターテインメントと宮崎銀行で実業団選手として活躍。5000m日本選手権出場、クイーンズ駅伝2区区間2位、同1区区間3位などの成績を収めた。32歳で現役を引退後、銀行勤務を経てIFAに転身。現在はアスリートの資産形成やセカンドキャリア支援に携わっている。