本日ステージ別ラインナップが発表されたSUMMER SONIC。Rolling Stone Japanではクリエイティブマン代表取締役社長・清水直樹氏にインタビューを実施。
20周年を迎えたサマソニヒストリーでもなく、豪華かつ多彩なラインナップについてでもなく、今回は清水氏の地元である「静岡」をキーワードにその原体験を聞いた。

―清水さんへのインタビューはSUMMER SONIC10周年の時もやらせていただきましたし、20周年ということでいろんなところでサマソニについて話をされていると思うので、今回は清水さんの出身地・静岡をキーワードにお話を聞かせてください。僕は清水さんの地元・焼津市の隣、静岡市の生まれで。

清水:静岡市のどこなの?

―古庄ですね。祖母は両替町出身で、小学校は祖母の学区の方に通ってました。『昭和40年男』のインタビューを見ましたが、清水さんの高校は山のほうにあったんですよね。どこですか?

清水:吉田。山もあったんだけど、焼津市から海を沿って大井川を渡って、そのすぐが吉田町ってところ。バスでしか行けないような場所。榛原、御前崎は知られてて、その間にあるのが吉田なんだけど意外と誰も知らない(笑)。ただ今は「頂フェス」で少し知られているかな。そこの吉田高校は県立の普通高でラクに入れるところだったんだよね。


―実家は?

清水:生まれは焼津の港町で、小学生の時に隣町に引っ越したの。もうちょっと広々とした田舎に移動したって感じかな。小学校3年で転校したけど、自転車で20分のところ。それでも子供にしたら大きいよね。全てが変わるから。兄貴と”絶対に引っ越したくない!”って。俺が小学生の時に兄貴が中学生で、学校が変わるのがイヤだから2人でアパートを借りてその学区内に住む計画を立てて(笑)。そのくらい地元が好きだったね。

―いわゆる商店街は焼津駅前にあって?

清水:焼津駅前は何もない。あの頃はアーケード街で昭和通りと神武通りいうのが港近くにあって、そこが焼津で一番開けた通りで、映画館やレコード店だったり本屋だったり、ファッション系のお店があって、あとは西友とかデパート。港に近いエリアが焼津で一番栄えていた場所だったね。そのすぐ近くに住んでいたから、小さな田舎町の中の一番バッチリの場所に住んでいたんだよね。


―それは引っ越したあとですか?

清水:引っ越す前だね。でも引っ越した後も、結局はそっちのエリアに通っていた。バイトもしていたし。高校の時の映画館のバイトの時給が390円だからね(笑)。時給390円で映写技師もやらされていたから。何で400円にしないんだろうって小さな疑問を持ちながら(笑)。

―(笑)映画は小さい頃から好きだったんですか。

清水:好きだったね。映画と音楽、海外のエンターテインメントが好きだった。お袋が映画好きだったんだよね。小学校の時によく映画館に連れて行ってもらった思い出があるし、家に『ロードショー』とかそういう雑誌があって、小学校の頃は洋画というものにすごく触れていた。『大脱走』のスティーブ・マックイーンが今でも変わらない一番のヒーロー。
もちろん、同時期にカーペンターズとかザ・ビートルズといった非常に聴きやすい、いい曲だなと思うものはすでに聴くようになっていたし、やはり小学校の頃から心動かされるものは海外のものだった。

レコードとラジオと雑誌が学校であり教科書だった

―僕も小学校の頃、呉服町という商店街にあるおもちゃ屋さんに通い詰めてたんですけど、店員さんが皆サーファーだったんです。彼らがハワイに波乗りに行った時、現地のラジオをカセットテープに録音して、それを持って帰ってきて店内で流してたんですよね。そこでビースティ・ボーイズやスティングの曲を知って、なんだこのカッコいい曲は!と。

清水:海外の雰囲気を考えると当時はFEN(極東放送網)だよね。ファー・イースト・ネットワークっていうラジオで、周波数をぎりぎり合わせてノイズ混じりに聴く。ナビゲーターも外国人だし、かかる音楽も洋楽だから中学生ぐらいの頃から必死に聴き出して。

―静岡ってラジオの電波がなかなか入らなくないですか? 東京のラジオ局を聴きたいなと思って、短波放送が入るラジオを祖母に買ってもらったんですけど全然入らなくて。

清水:そう。だからFMだよね。NHK-FMの『サウンドストリート』とかね。当時は『サウンドストリート』に出ると大御所っていう。
月曜日が佐野元春さん、火曜日が教授(坂本龍一)だったかな。金曜は渋谷(陽一)さん。山下達郎さんが木曜日か。今思うと、高校時代の自分が必死になって聴いていた雲の上のようなナビゲーターの方たちと仕事をしたり、渋谷さんに至っては普通に携帯に電話をかけてきたりね(笑)。不思議だけどね。面白いよ。

―当時の焼津にはライブハウスってあったんですか?

清水:皆無だね。何だろう、ライブってものに対しては静岡にいた時はあまり意識していなかったんだよね。まずは聴く、そして雑誌を読む。だからひたすら内にこもるような世界だよね。貸しレコード屋に毎日通って、いろいろと引っ掻き回して1枚借りてダビングするようなことや、さっき言ったFMチェック。FM雑誌っていうのが昔はあったじゃない? 流れる曲が載っているわけよ。
どんな曲がかかるのかチェックして、ステレオにカセットを入れておいてダビングしたいと思った曲が流れたらすぐに録音できるように待っていたり。あとは『ミュージックライフ』や『ロッキング・オン』といった雑誌を見ることが音楽との関わりだったよね。だから東京に近いヤツらから、当時初来日したクイーンを観たとか 「ボブ・マーリーがさ」っていう話を後から聞くと、まぁ羨ましかったね。

―音楽に関連した仕事がしたいと高校生ぐらいから思い始めていたんですか?

清水:それしかやりたい夢がなかったんだよね。時代もそうだし、今みたいにフリーターが許されるような感じはなかった。でも俺はどちらかと言うと、何も先を決めないタイプで。高3の冬休みでまだ進路を決めてなかったんだよね。大学に行くでもなく、どう考えてもその時に入れるいい大学はなかった。高校で勉強なんて一切してなかったから。レコードとラジオと雑誌が学校であり教科書だったからなー。かと言って地元で職を探して働く気もさらさらなかった。東京に出ないといけないとは考えてはいたけど、東京に出るきっかけというか理由がない。
そこで当時付き合っていた女の子が見かねて、「こんなのあるよ」って東京の音楽の専門学校のパンフを見せてくれて。おっ、これを理由に東京に出ようと親父に専門学校に行きたいんだと言って。末っ子だからある程度好き勝手やらせようという雰囲気もあったのと、ようやく自分でやりたいことがあると言ったのもあって「行けよ」と。「お前は焼津じゃなくて世界中を駆け回るような人間になってもらいたいから。大学出したつもりで4年は待ってやる」って言ってくれたんだよね。

何も持っていない自分が業界に入ったんだから、死に物狂いで毎日怒られながらもこなしていた

―とりあえず絶対に東京に行こうという気持ちはあったんですね。

清水 あったね。西友の屋上から焼津を見渡したわけよ。海と山に見慣れた景色で全てが見える。高校生くらいの時にその景色を見ながら、自分はこの狭い町で終わっていいのかなーと真剣に考えて、ここで終わりたくないって思ったんだよね。焼津は好きなんだけど……夢をあきらめた人たちをたくさん見てきたから、この町でこのまま終わりたくないなって、絶対にここから出ようって。

―東京にはレコード屋がいっぱいあるし、ライブハウスにすぐに行けるし、電車もたくさん走っているから夜遅くまで遊べる。焼津にいた時とは劇的に違う環境が待っていたと思うんですけど、どう感じました?

清水:ここぞとばかりに遊んだね(笑)。学校はすぐに辞めちゃったけど、東京にいる理由がほしかったから、最終的には海外に行きたいという夢もあって英語学校に通ってまだ東京にいれるように暮していた。レコード屋とパブでバイトしながら、あの頃はディスコやビリヤードで夜通し遊ぶ時代だから、とにかくあまり焦らず将来のことを考えずに好きなことをやっていた。ただ3年くらい経った頃に、親父も定年だしそろそろ約束は守らないとヤバいなと真剣に考えて、求人誌を見ながらいろんなところにアポを取って、ようやく音楽業界に入るための動きをスタートしたと。それが21歳の時。

―そこでプロモーターの仕事を紹介してもらったんですか?

清水:実際は紹介してもらったというよりも”プロモーターからやったら?”って。ヒントを貰ったんだよ。最初はレコード会社か音楽雑誌の編集かラジオのディレクターという、自分が夢中になったジャンルしかなく業界を知らない俺にとって、コンサートプロモーターが自分の目標の中のひとつに加わったんだよね。業界の人にここから始めた方がいいと言われたから、素直にコンサートプロモーターから始めようと思って、求人をくまなくチェックして、海外アーティストのコンサートって書いてあったから”ここだ!”と思って面接を受けて。小さな会社だったから運良く入れたんだ。宣伝を中心にやるってことで入社したんだけど、ザ・クルセイダーズの来日公演が決まっていたから、入社してすぐに舞台監督をやらされて(笑)。何が何だかわからないよね。まあ苦労したけど、何も持っていない自分が業界に入ったんだから、死に物狂いで毎日怒られながらもこなしていたけど。

―20代はがむしゃらに働いて、1990年にクリエイティブマンを設立という一大転機があったわけですが、20~30代の頃、地元との向き合い方はどんな感じでしたか?

清水:実家に帰らないとかはなかったね。静岡って自分が成功するまで絶対に帰らないぞ!という距離感じゃないから(笑)。ただ静岡の人だと最終的には田舎に帰りたいって人が多いけど、少なくともそういう部分は自分にはないね。その線引きはしているかな。

生の魚を出すのはフェスでは非常に困難だけど、だからこそ価値があるかなと

―東京に出て何か形になるものを作り、ある程度キャリアを積んで実績もできると、地元に何か恩返しってよく言うじゃないですか。

清水:それはもちろんあって、一番大きいのが静岡の清水で始めた『マグロック』と『フジソニック』。どんどんレコード屋さんがなくなってきて、音楽と近い環境ってなくなってきたでしょ? 静岡って昔は洋盤屋があって、そういうお店がなくなるって時に、音楽の芽が静岡からどんどんなくなっていくのはすごく寂しいなと感じていた。

静岡朝日放送という、SUMMER SONICでプロモーションを手伝ってくれた人たちと番組を作る中、「静岡で何かフェスができないかな」と言われた時にいち早く動いて。フェスのアイデアは絶えず頭で考えているから、清水のマリンパークはすでに構想としてあったんだよね。横浜の赤レンガにもすごく似てるし、あそこのドッグヤードが使えるなと思って。”だったらあそこでやってみない?”っていうアイデアをパッと出して、そこからフェスが始まったと。

―実際に始めてみて反響はどうでしたか?

清水:フジソニックは静岡がテーマで静岡出身の人に出てもらうってことで、電気グルーヴ吉井和哉さんもLOVE PSYCHEDELICOも初回に出てくれて。静岡の人は静岡愛があるから、気合いも入っていたしお客さんも暖かく迎えてくれてやって良かったっていう充実感があったんだよ。でもその次を考えた時に、静岡出身で括るとなかなかアーティストがいないことに気づいて(笑)。今は逆にフジソニックは少し休んで、マグロックを通じて静岡の人たちがロックを楽しみ、次世代のバンド人口が増えればいいなっていう考えに変わってきた。次の世代に何を残せるのか、地元に貢献できるギリギリまでは続けていきたいですよね。

―サマソニの焼津マグロ丼は、静岡ならではの名物ですよね。

清水:フェスを続けていくとフェス飯もすごく重要になってきて、自分もフジロックに行ったらもち豚を楽しみにしていたり、ロック・イン・ジャパン・フェスティバルだったら焼きハムがあるわけじゃない。俺たちは何だろう?と思った時に幕張にはなかったんだよ。そこでじゃあ地元の焼津のものを持ってきちゃえと、マグロの卸をしている義理の兄に相談して、一回やってみるかってなった。生の魚を出すのはフェスでは非常に困難だけど、だからこそ価値があるかなと思って3大フェス初のマグロ丼が始まったんだ。やるとやっぱり自分の兄弟だし、変なものを出せないから気合いを入れていいものを出してくるわけ。そりゃ美味いもんだからやっぱり話題になって、それから”SUMMER SONIC=マグロ丼”が定着して名物がサマソニに生まれた。

―義理のお兄さんがロックフェスにお店を出すのはサマソニが初?

清水:初だね。それで彼らも仕事としてのケータリングや出店のノウハウができたから、それ以降は静岡の中でもマラソン大会やフードフェスに出店したり、そのきっかけにはなったみたいだね。

―いい話ですね。フェスを起点に文化が派生していくというか。

清水:そうだよね。ロッキング・オンの渋谷さんと一緒に仕事させてもらっているのを見てると、雑誌社が年間何本も大きいフェスをやりつつ、フードフェスを始めたり、Tシャツ事業もしているわけじゃん。それはフェスから発生した新たな食フェスだし、Tシャツを売り出すってフェスTシャツから来てるわけだよね。だから、フェスを始めてそこからいろんなビジネスが派生していって、人を巻き込んでいくのが面白いよね。それだけのものがフェスの中に隠されていた。誰も気づいていなかったけど、やっていくうちに派生したっていうのがね。

フェスティバルを作った人間としても、もっと日本を出て海外にチャレンジしないといけないなって使命感はある

―焼津に住んでいた時、西友の屋上から町を見て”ここでは絶対に終わりたくない”と思ったところから、SUMMER SONICという巨大フェスを20年やってきて今がある。自分のことを改めて評価するとどうですか?

清水:とにかく出来過ぎだよね(笑)。なんでもない奴が25歳でクリマンを初めて、35歳でSUMMER SONICを初めてそろそろ会社も30年になるから。

―あはは。

清水:高校卒業まで焼津で何の進路も考えずにうだうだしていたし、東京でもコネも学歴も実力もなくあがいていた奴が日本で3本の指に入るようなフェスを作って、なおかつ海外の魅力的なアーティスト達と毎日仕事ができるようになっている。親父が言った言葉じゃないけど、実際にいろんな国を飛び回って交渉をするような人間になって、その頃から考えたら出来過ぎな人生だよね。自分でも”何でこうなったんだろう?”とたまに思うけど、人の何倍も努力をしたかって言われたら自分ではそう思わないんだよね。流れのチャンスを掴みながら、やれることをやってきただけ。英語もだめだし、完璧な交渉術を学んだわけでもないけれどなぜか信用してもらえた。だからいつも言っているのは、ある意味誰にでもチャンスはあるっていう希望にはなれてると思う。時代が違うから全てが同じようにいくわけじゃないけど、ある程度の努力とチャンスがあれば誰でも夢に近づけるよって、今の自分だったら若い人たちにアドバイスするね。

―サマソニは20周年3日間開催で、来年はお休みして、その次からの構想はあるんでしょうか。先ほどいつもフェスのことを考えているとおっしゃっていましたけど。

清水:来年は東京オリンピックで休まざるを得ないから、さらに次の30年に向けて考える時間が十分ある。それにアジア進出を絶えず考えているので、ちょうど空く間をアジアにチャレンジする時間にしたいと思っているよ。とにかく『SUMMER SONIC』っていう20年続いたブランドをなくしたくないし、これだけアジアに知られているフェスって日本にもそんなにないからね。だとしたら、戦える時に戦いたいなと。

日本の中だけで満足するってことが音楽業界的には多い。実際にK-POPは世界に進出して、日本のスポーツ選手もみんな世界に羽ばたいている。エンターテインメントで言うと音楽が世界から取り残されている気がするので、フェスティバルを作った人間としても、もっと日本を出て海外にチャレンジしないといけないなって使命感はあるね。あとは代官山で運営しているSpace Odd (ライブハウス)とCafe Habana(レストラン)から次のアーティストや食文化を生めたらいいなと日々クバーノ(サンドイッチ)を食べている(笑)。

Edited by Motomi Mizoguchi

サマソニ生みの親が語る、静岡愛と人生の話「誰にでもチャンスはある」


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SUMMER SONIC 2019
2019年8月16日(金)、8月17日(土)、8月18日(日)
東京:ZOZOマリンスタジアム&幕張メッセ
大阪:舞洲SONICPARK(舞洲スポーツアイランド)
http://www.summersonic.com/2019/

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