日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年5月は高田渡特集。
第3週は数多くの高田渡の作品を手がけて来た、ベルウッド ・レコードの設立者・三浦光紀をゲストに招き、ベルウッド・レコード所属期の高田渡を振り返る。

田家秀樹(以下、田家):先週は中津川フォークジャンボリーでの出会いやベルウッド時代の話を伺いましたが、もし三浦さんが中津川フォークジャンボリーの楽屋に高田さんを訪ねてレコードを出したいんですと話に行かなかったら、高田渡というアーティストは存在したでしょうかね?

三浦光紀(以下、三浦):存在はしたと思います。でも、渡さんのいないベルウッドはカラーが寂しいですよね。ベルウッドってサウンドだけではなく言葉を重視するレーベルだったので。渡さんや松本隆さん、小室等さんもそうですが言葉をすごく重要視したというか。日本語のロックという言い方もありますし、日本人として当然のことなんですが、歌謡曲とは一線を画していますよね。
それがいいなと思って僕はやっていたんですけど。

田家:ベルウッドというレーベルがなくて、三浦光紀さんというプロデューサーが現れなければ、はっぴいえんどと高田渡さんが一緒にレコーディングすることがなかったかもしれないですよね。そういうのが時代の流れだったり?

三浦:やっぱり運ですね。たまたま僕が強引に中津川フォークジャンボリーに押しかけて、そこではっぴいえんどと渡さんに出会わなかったら、ベルウッドはないと思いますね。

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田家:三浦さんは1975年にベルウッドをお辞めになって、日本フォノグラムに移られるわけですが、今週はその時期のことも含めてお話をお聞きできたらと思っております。アルバムで言うと、1973年にベルウッドでの3枚目のアルバム『石』から、1976年の『FISHIN ON SUNDAY』をリリースするまで3年間空いていますね。


三浦:この時期、渡さんははっぴいえんどの『風街ろまん』のレコーディングの時によく遊びに来ていて、大滝詠一さんと僕と渡さんでお茶を飲みながら、アメリカの音楽のことを彼らが喋っていて。二人ともめちゃくちゃ詳しいんですよ、オタク同士のアメリカ音楽の話なんで(笑)。

田家:この話は後ほどゆっくりお伺いしましょう。今日お聴きいただく三浦さんが選ばれた1曲目は、アルバム『FISHIN ON SUNDAY』から「初めての我が児に」。

初めての我が児に / 高田渡

田家:作詞が詩人の吉野弘さん。吉野弘さんは、吉田拓郎さんの「祭りのあと」の"日々を慰安が吹き荒れて"というフレーズを作った方でもあります

三浦:僕は吉野さんと田舎が一緒なんです。
山形の酒田。

田家:これを渡さんが歌いたいと言ってきた時はいかがでしたか?

三浦:いいと思いました。たぶん自分のお子さんを頭に描きながら歌っているんだと思うんですが、それにしてもすごい歌詞だなと思いました。

田家:1週目と最終週のゲストである御子息の高田漣さんが1973年に誕生しました。ベルウッドから、加川良さんの1974年のアルバム『アウト・オブ・マインド』がリリースされまして、その中に「子守唄をうたえない親父達のために」という曲があった。詞曲は加川良さんが書いていますが、渡さん達4人が一緒に歌っていて、そこに漣さんの泣き声が入っている。
あのアルバムも三浦さんですよね?

三浦:そうですね。赤ん坊の漣さんが泣かされたんですよ(笑)。

田家:当時の彼らの、子供が生まれた時の雰囲気はどういうものだったんですか?

三浦:普通に喜ぶんだと思いました(笑)。皆普通じゃない人だったから。

田家:確かに。皆髪の毛が長くてジーパン履いて(笑)。


三浦:それがこんなに親バカになるんだなと思って。

田家:赤ん坊を泣かそうっていうのは誰のアイディアだったんですか?

三浦:加川良さんです、漣さんデビューですね。

田家:高田渡さんの命日に発売になった『高田渡の視線の先に-写真擬-1972-1979-』の中に、『アウト・オブ・マインド』のスタジオの様子が載っているんですが、初々しいですね。

三浦:鈴木茂さんが新しいメンバーを連れてきて、それのバックをやったんですよ。そこから鈴木さんのバンドのハックルバックが生まれたんです。あのメンバーを集めたのは僕と加川良さんなんですけど、そこに林敏明さんとか田中章弘さんもいて。
二人とも僕のところに居候していたんですけど、それで茂さんとくっついて。

田家:居候してたんですか?

三浦:そうそう。中学を卒業してすぐ僕のところに来たんじゃなかったかな。まだ子供でしたね。田中くんなんかはっぴいえんどを聴いて、細野さんそっくりになっていって。

田家:そうなんですね。三浦さんは兄貴分ですね。

三浦:兄貴分というか、僕の家に渡さんや奥さんのふみさんも来て、その時にはお腹の中に漣ちゃんもいましたからね。色々な人が出入りしていたんですよ、僕の知らない間に(笑)。

田家:当時風に言うとコミューンのような家だったという。

三浦:そうそう、鍵がなくて自由に出入りできる(笑)。

田家:そういう人がやっていたからこういうレーベルになった、とても分かりやすいエピソードですね。続いて、同じく三浦さんが選ばれた2曲目は1976年の『FISHIN ON SUNDAY』から1曲目「ヘイ・ヘイ・ブルース」。

ヘイ・ヘイ・ブルース / 高田渡

田家:『FISHIN ON SUNDAY』はロサンゼルスで録音のアルバムでして、曲の中で出てきた山岸くんというのはウエスト・ロード・ブルース・バンドのギタリストの山岸潤史。ロサンゼルス録音に至る伏線がありまして、それが先ほど三浦さんが仰った『風街ろまん』のレコーディングの時に大滝さんと渡さんと楽しそうにアメリカの音楽の話をしていたというところにつながるんですね。

三浦:そうです。アメリカでは16chがくらいの多チャンネルが主流らしいから、一回アメリカに行かないといけないねと話していて、それではっぴいえんどを連れて行ったんですね。

田家:でももともとは大滝さんと高田渡さんと三人で行く予定だったという。

三浦:三人で行こうと思ったんだけど、三人で行っても何も始まらないから(笑)。それではっぴいえんどが行って、でも僕も渡さんのことを気にしていたのでそろそろ一緒に行きましょうか、ということで細野さんを誘って行ったんですね。

田家:当時のことを渡さんは『バーボン・ストリート・ブルース』で次のように書いています。「ずっと親しくしていたディレクターが、キングレコードからフォノグラムに移ったため、そのディレクターから"そろそろ出しませんか"という話があり、"じゃあやりましょうか"と答えたら、いっそのことロサンゼルスに行って録音しようということになったのである」と。

三浦:はっぴいえんどと全く同じサンセットサンドスタジオ、同じエンジニアのヴァン・ダイク・パークスで。当時はロック専用のスタジオってあまりなかったんですよ。そういうスタジオなので渡さんもいい音になるんじゃないかと思って。

田家:高田渡さんがロサンゼルスに行ったらどうなるか、イメージはあったんですか?

三浦:頭の中では、ライ・クーダーをイメージしてましたね。

田家:細野さんと中川イサトさんは三浦さんの方で?

三浦:渡さんとイサトさんは一体ですから、そこに細野さんを入れるというのは自分の中で思ってました。

田家:なるほど。そうしたらある時に山岸さんに会ったと。

三浦:バッタリ。そこで山岸さんと知り合って、僕はフォノグラムでのソー・バッド・レビューに発展していくんですけどね。

田家:当時、渡さんが書いていた「親しくしていたディレクターがキングレコードからフォノグラムに移った」と。移ったというのはなぜだったんでしょう。

三浦:今だから言えるんですけど、当時吉田拓郎さんがソニーで100万枚のヒットを出していて、拓郎さんの契約が切れるから新しいレコード会社やらないかって六文銭のマネージャーの沖山さんから振られたんですよ。その話を聞いて面白いなと思って拓郎さんに言ったら、井上陽水を誘うのも条件だっていうことで。小室等さんが誘ったって皆は思ってるんですけど、実は僕が井上陽水さんのマネージャーの奥田さんに会って契約のことを訊いたら、ビクターとやることになってると言われて。それが頭にあったので、もしかしたら誰か誘えば井上さんも来るんじゃないの? って言ったら、小室さんが誘ったんです。

田家:それがフォーライフレコードになっていくんですね。ベルウッドも評価が出来上がったし、たくさんアーティストも育っていい作品も残ったし、次に行ってみたいと思った時にそういう話があったと。

三浦:そうですね。でもレーベルカラーは違うから、僕は吉田さんのレーベルは別の形で作って、親会社がキングなんでその下に子会社として作ろうと思ったら、当時は五社協定もあって外部にレコード会社は作れないし、アーティストを引き抜くなんてとんでもない、という時代だったんです。引き抜いたわけではないんですけどね。それでキングレコードではできないって言われて、じゃあ他でと思ったので僕はフォノグラムに行って。そのレコード会社を作る時に、レコード協会は発売もプレスも引き受けないって言われたので、ユイの後藤由多加さんとどうしようかっていう話になって。後藤さんがフジサンケイの石田達郎さんの息子さんとお知り合いだったので、そこからは後藤さんが進めていったんです。

田家:それでポニーキャニオンが販売するようになったと。このアルバム『FISHIN ON SUNDAY』は色々な思い出があるということで、タイトル曲も選ばれています。お聞きください「フィッシング・オン・サンデー」。

フィッシング・オン・サンデー / 高田渡

田家:この曲を選ばれたのは?

三浦:はっぴいえんどでレコーディングに行った時にヴァン・ダイク・パークスと知り合って、細野さんと渡さんと行った時にもヴァン・ダイク・パークスがスタジオに来てくれて。細野さんは一回やってるから知り合いで、そこにドラム缶を叩くロバート・グリニッジを連れてきてくれて。出す音がヴァン・ダイク・パークスの作るアルバム、ディスカバーアメリカにすごく類似してましたね。はっぴいえんどの『さよならアメリカさよならニッポン』も彼でしたけど、結局このアレンジもヴァン・ダイク・パークスですよね。そこに一緒に参加しているのが、後にリトル・フィートに参加するフレッド・タケット。そこから矢野顕子さんの76年の「ジャパニーズガール」のレコーディングになっていくんです。僕がアメリカに連れていったのははっぴいえんどと高田渡さんとアッコさんなんですけど、よくサンセットサンドスタジオの連中とか見物に来て、日本のレーベルもすごいんだって言ってましたね。

田家:なるほど。高田渡さんを向こうのミュージシャンはどんな風に聴いていたんでしょうね。この声とか歌は言葉を超えるものもあるんでしょうし。写真集『高田渡の視線の先に-写真擬-1972-1979-』の中には唯一カラーの写真がありまして、それがロサンゼルスの『FISHIN ON SUNDAY』レコーディングの写真でした。

三浦:ジェシ・エド・ディヴィスというスワンプロックの象徴的な人の看板があって、その前でずらっと撮っている写真ですね。

田家:高田渡さん、細野晴臣さん、中川イサトさん、三浦光紀さん、元「ヤング・ギター」編集長、山本隆士さんという顔ぶれです。先週は三浦さん自分の写真はないんだと仰ってましたが、あれは貴重なアメリカでのスナップですね。曲が決まっていないのにスタジオだけ決まっていたので、何をやるかその場で決めたと渡さんは書いてましたね。

三浦:「ヘイ・ヘイ・ブルース」なんか、その場で適当に作ったんじゃないかと思って。日本にいるときはちゃんと作詞があったけど、アメリカに行くときはバタバタしていたので向こうで適当に作ったやつもあると思うんです。

田家:なるほど。このロサンゼルスレコーディングが渡さんに及ぼした影響はあるんでしょうか?

三浦:あるのかな? 渡さんは帰ってきてからニューオリンズ・ジャズ・バンドみたいなものを作ったり、底抜けに明るい音楽をやっていたので、その辺はもしかしたら影響があったのかなと思います。

田家:次に三浦さんが選んだのは『FISHIN ON SUNDAY』の次のアルバムの曲なので、そういう影響が感じられるんじゃないでしょうか。「バーボン・ストリート・ブルース」。

バーボン・ストリート・ブルース / 高田渡 & ヒルトップ・ストリングス・バンド

田家:高田渡というよりも、ヒルトップ・ストリングス・バンドとしてのアルバムですね。これを選ばれた理由は?

三浦:これはコンサートでずっとやっていて歌い慣れていますよね。原曲は「バーボン・ストリート・パレード」です。

田家:これは1977年にフォーライフレコードから出たアルバム『バーボン・ストリート・ブルース』のタイトル曲で、小室等さんがプロデューサー。三浦さんの名前はディレクターになってますね、

三浦:小室さんのアシスタントでやらせてもらいました。

田家:どんなレコーディングでした?

三浦:楽しかったですね。

田家:さっきの『FISHIN ON SUNDAY』はレコード会社のクレジットが日本フォノグラムと徳間ジャパンになってましたね。

三浦:僕は日本フォノグラムで社長と喧嘩して会社を辞めて、僕が作った原盤を全部自分で買って徳間に移ったんです。

田家:『FISHIN ON SUNDAY』は両方に跨っていたんですか。

三浦:作ったのはフォノグラムで、僕が移ってから徳間から出すようになったんですね。

田家:なるほど。それで『バーボン・ストリート・ブルース』はフォーライフレコードからだと。ヒルトップ・ストリングス・バンドは高田渡さん、佐久間順平さん、小林清さん、大庭昌浩さんのグループ。このアルバムはどんな風に記憶していますか?

三浦:グルーヴィーないい感じのアルバムだなと思いましたね。

田家:URCから来たときとは感じが変わったと。

三浦:僕はフォークソングとかロックとかどっちでも良くて。とにかく新しい音楽だなと思ったんですよ。ただ、当時はロックというと内田裕也さんのような英語で歌うもので、フォークは森山良子さんのようにお坊ちゃん、お嬢さんが歌うイメージがあったんですけど、それとは全く違うイメージの集団がいたなと思って。それをなんと言うのかな? と思って、ニューミュージックなんじゃないかなと素直に思ったんですけどね。

田家:ベルウッドの設立の趣意書にニューミュージックという言葉使われていた。

三浦:渡さんとか皆もシャンソンとか好きだったし、フォークとかロックも好きだったし。全員が音楽そのものを研究したキュレーターですよ。音楽オタクの集団ですね。

田家:『バーボン・ストリート・ブルース』の話は、来週のゲスト佐久間順平さんにも詳しく訊いていこうと思います。続いて、三浦さんが選ばれた思い出の曲。1993年のアルバム『渡』の中から「ホントはみんな」。

ホントはみんな / 高田渡

三浦:これは鈴木慶一さんが渡さんのことを好きで。それでずっとバックアップしてくれていたんです。慶一さんがプロデュースした音楽なので、これまた洒落てていいなと思っています。渡さんはステージであまり歌わなかったんですけど、漣ちゃんの解説を読むとすごく重要な曲だなと思って選びました。

田家:ハウス食品の初めてのCMソングなんですね。これは徳間ジャパンから出ていますが、この時三浦さんは?

三浦:その時にはもう辞めてましたね。

田家:この曲は高田漣さんが『コーヒーブルース』でもカバーしていましたが、渡さんのアルバムは1983年の『ねこのねごと』以来10年ぶりだったんですね。『バーボン・ストリート・ブルース』には、「本当によく出してくれたと思う」と書いてありました(笑)。その間の1980年代はライブに専念していて、1年の半分以上はライブで全国をまわっていた。1年間で日本を2周くらいしていたそうですね。

三浦:僕がベルウッドのアーティストを選ぶ時に、基準の一つとしてライブがいいのは絶対条件だったんです。なので、皆ライブは上手かったですね。

田家:鈴木慶一さんが渡さんを高く評価して気にかけていたのは、どんな風に思われていました?

三浦:そうだなと思っていました。慶一さんとかくじらさんとか。はっぴいえんどもはちみつぱいも渡さんは好きでしたからね。

田家:あの演奏にははちみつぱいのメンバーも加わってましたからね。

三浦:武川雅寛さんのブラスがいいんですよね。

田家:はちみつぱいも三浦さんは手掛けられていて。彼らに対してはどう思っていましたか?

三浦:はっぴいえんどは優等生みたいな感じですけど、はちみつぱいはちょっと道を外れてヨレヨレの洋服を着て、音楽も非常にこなれているというか。はっぴいえんどは教科書みたいな演奏ですが、はちみつぱいはこなしているという雰囲気でいい感じだと思いました。

田家:さっきの三浦さんの家に皆が集まったりしていた話もありましたけど、写真集にもそういうミュージシャンがいっぱい出てきていました。皆さん若かったじゃないですか。当時ベルウッドにいた高田さんも20代前半ですよね。

三浦:ああいう老成した歌詞を歌ってるから子供だと思わないけど、よく考えたら皆子供なんですよね。不思議な時代ですよね。

田家:今と何が違うんでしょうね?

三浦:今ももちろん考えてるんでしょうけど、人生って何かを若いなりに一生懸命考えたんじゃないですか。僕もそういう時期がありましたし。なので敢えて老成した詩人の言葉を借りるのは必然ですね。

田家:若者文化なんだけど、若さじゃないところにも目がいっていた。

三浦:逆に言うと、ああいう老成した歌は若い人しか歌わないですよね。老成した人は歌わない。

田家:それは言い得て妙ですね。さて、三浦さんが選ばれた最後の曲は「くつが一足あったなら」ですが、こちらは漣さんがカバーされたものです。お聞きください。

田家:漣さんのこの歌を聴いて、どう思いますか?

三浦:人は愛する時に最も優れたリポーターになるって誰かが言ってた気がするんですけど、僕もそう思うんですよ。そういう意味では、漣ちゃんがリポートする渡さんは世界の誰も叶わないくらいすごいです。

田家:高田漣さんが高田渡さんをカバーしたアルバム『コーヒーブルース』は、この曲で終わっております。漣さんが受け継いでいるものはなんだと思いますか?

三浦:全てだと思います。僕は総合力で言うと漣さんが上だと思うんですよ。洗練されてるし技術も含めて。渡さんと比べる必要はないんですけど、渡さんのいいところを漣ちゃんは受け継いでいる感じがしますね。なので、渡さんの最高の作品の一つが漣ちゃんじゃないかなと。

田家:改めて、漣さんを通して高田渡という存在を知る人に対して、ここを知ってほしいとかこんな風に聴いてほしいという思いはありますか?

三浦:音楽もそうですけど、僕は、真っ当な生き方。正直で質素で、それくらいで十分だと思うんです。それを渡さんは地でいっている。真っ当な人だと思います。僕は美しく生きることに決めました。美しく生きるために必要なものは、質素・正直・思いやり。これしかないと思って生きています。

田家:わかりました。ありがとうございました。ゲストは、ベルウッドレコードの設立プロデューサー三浦光紀さん。お聞きいただいたのは、高田漣さんで「くつが一足あったなら」でした。

田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」高田渡特集Part3。今年が17回忌、永遠のフォークシンガー高田渡さんの軌跡を辿る1ヶ月。先週と今週は、ベルウッド・レコード設立プロデューサーの三浦光紀さんをゲストにお送りしました。今流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。

三浦さん、いいことを言ってましたね。老成した人は老成した歌を歌わない。老成した歌は若い人だから歌うんだ。この意味をかみしめていただきたいですね。本当に狂気の人は狂気を歌えない、狂気を歌うためには正気でなければいけないというのに近いかもしれません。1970年代のシンガーソングライターの歌を聞くと、かなり老成してます。自分で書いている言葉もそうですし、作詞として借りてきている詩もそういうのが多いです。これは彼らが若かったことの証かもしれません。若いから若い人向けの歌を歌うのではなくて、自分がどう生きるか考えた時にそういう老成したものの考え方になったり、老成した人の作品に惹かれる、参考になったりするのではないかと思いました。

ベルウッド・レコードというと、サウンドの宝庫として評価されることが多いんですが、三浦さんが言っていたのは言葉。このことを改めて受け止めていただけると、高田渡というアーティストがまた違った風に聞こえるんではないかと思っております。優れたアーティスト、時代を作ったムーブメントにはやはり傑出したプロデューサーがいた。1970年代前半、ベルウッドレコードには三浦光紀さんがいなかったら、ああいう音楽にはならなかったのではないか。そして時代がそういう人を必要とした。皆若かったんです。

高田渡作品をベルウッド・レコード創設者と振り返る、老成した歌は若者にしか歌えない

三浦光紀(左)と田家秀樹(右)

<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
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