元プロレスラーの前田日明が18日、新宿区の感通寺で営まれた昭和時代のプロレス界で“過激な仕掛け人”とうたわれ昨年4月21日に亡くなった元新日本プロレス専務の新間寿さん(享年90)の一周忌法要に参列した。

 法要には、新間さんがプロデュースした初代タイガーマスクの佐山サトル、ストロングスタイルプロレスのスーパー・タイガー、間下隼人、平井丈雅代表らが参列した。

 新間さんは、1966年10月12日に蔵前国技館で旗揚げした「東京プロレス」に入社しプロレス界に入った。アントニオ猪木さんが72年3月6日に大田区体育館で旗揚げした「新日本プロレス」では同年秋に入社しマネジャー、営業本部長として猪木さんを支え、74年3月19日に蔵前国技館での猪木さんとストロング小林さんとの「日本人対決」。さらには76年6月26日に日本武道館で猪木さんとボクシング世界ヘビー級王者のムハマド・アリさんが戦った格闘技世界一決定戦などをプロデュースし新日本プロレスの黄金時代を支えた。

 また、世界のベルトを統一する「IWGP」構想を掲げ、83年5~6月に「IWGPリーグ戦」を開催し現在、新日本プロレスのタイトルとなっている「IWGP」の礎を築いた。さらに89年には、参院選出馬を表明した猪木さんが設立した政党「スポーツ平和党」幹事長に就任し同年7月の参院選当選をバックアップしたが、その後、確執が生まれ猪木さんとは決別していた。

 2019年には、世界最大の団体「WWE」のレガシー部門で殿堂入り。日本人のフロントで唯一の受賞となった。晩年は、近年は初代タイガーマスクの佐山サトルが主宰する「ストロングスタイルプロレス」の会長として昭和の過激なプロレス復興を提唱していた。

 法要を終え前田は、スポーツ報知の取材に応じ新間さんとの思い出を語った。

 前田は大阪の北陽高(現・関西大学北陽高)を卒業後、新間さんにスカウトされ1977年に新日本プロレスに入門した。

 「その前に佐山さんと1週間ぐらい一緒に練習したんですよね。多分、その話を佐山さんが東京に持ち帰って新間さんとか猪木さんにしゃべったんですよね。

多分、猪木さんか新間さんがそんなヤツがいるなら引っ張ってこいってそんな話になったんじゃないかなと思うんですよ」

 初めて会ったのは大阪・中之島のロイヤルホテル(現・リーガロイヤルホテル大阪)だった。

 「新間さんとロイヤルホテルで会って。地下にアスレチッククラブがあって『ちょっと運動しているところ見せてくれ』って言われたんですよ。そこで新間さんも上着、脱がれてプロレスラーみたいな体しているんですよね。それを見たら自分はプロレス界は、マネジャーでもこんな体しているんか!ってびっくりしたんですよね」

 この時、プロボクシング世界ヘビー級王者だったムハマド・アリに憧れていた前田は新間さんから「アリの弟子にしてやる」との言葉を信じて入門を決意した。78年8月25日の長岡市厚生会館での山本小鉄戦でデビュー。190センチを超える体格と真っすぐなファイトスタイルで若手の有望株と評価され、83年1月には武者修業先の英国で「ヨーロッパヘビー級王座」を奪取。同年5月に開幕した「IWGP決勝リーグ」では欧州代表として出場し新日本マットでメインイベンターの地位へ駆け上がった。

 「自分がつくづく思ったのは、新日本っていうのは山本小鉄さんと新間さんの両輪ですね。山本さんが選手をしっかり指導して引っ張って。レスラーとはなんぞや?という精神論をちゃんと植え付けて。新間さんがこれは不可能じゃないか?っていうような交渉をまとめたりして実現していく。

この両輪があったんですね。だからこそワールドプロレスリングのブームを起こしたんじゃないかと思うんですよね」

 前田は84年1月に新日本プロレスを退団し、新間さんが設立した「ユニバーサルプロレス」(第一次UWF)へ参加する。以後、新生UWF、リングスと団体を立ち上げ、リング上ではエースとして闘う一方で選手育成、団体経営に休む間もなく尽力した。

 「自分が、団体動かすようになって、あぁ…猪木さんすごかったな、新間さんすごかったな、山本さんすごかったなって分かったんですよね。なんでかっていうと自分一人で三役やってましたから。こんな時に新間さんみたいな人がいたらなぁ、山本さんみたいな人がいたらなぁと思いましたね」

 新間さんの人柄を尋ねると、こう答えた。

 「新間さんが亡くなる1年前にイベントがあって対談したんです。その時に『あの話、実はこうだったんだよ』『この話、ああだったんだよ』っていう話を聞いて。自分は、だったら、新間さん、なんでその時に言わなかったんですか?と聞いたんですよ。そうしたら新間さんは『真実はいつか誰かわかってくれるものなんだよ』って言ったんですね。だから、新間さんがなぜか悪役になっている悪者になっている話で全然違う真逆な話がいっぱい隠れているんです。本人はそれをこうなんだああなんだって一切言わなかった。

自分が聞いてようやく口開いたんです」

 新間さんが亡くなった昨年4月21日。その朝に自宅へお見舞いに訪れた。前田は新間さんが会った最後のプロレスラーだった。

 「その時、新間さんと会って一番、最初の一言が何かと言ったら『前田、悪かったな』とか言うんですよ。自宅に帰って来て、何を謝ったんだろう?とずっと考えていたら。モハメド・アリの弟子にしてやるからって言って引っ張ってレスラーにしたんで、それを言っているんだなと思いました。あと、『よくがんばってくれてありがとう』とも言ってくれました」

 そして、天国の“過激な仕掛け人”へ思いをはせた。

 「右も左も分からず新間さんの言葉に従ってやった結果…結果オーライですけど…今のこういう生活をしているというのがあると思うんです。だから、あのまま大阪にいたらどうなっていたかな?と考えると、ちょっとね…新間さんと会わなかった本当に大変だったなと思いますね」

 法要には佐山も参列した。新日本プロレス時代は兄弟のように仲が良かった2人だったが、確執が生まれ距離を取っていた。しかし、昨年の新間さんの通夜・告別式で長男の寿恒さんが導き再会し現在は、パーキンソン病とメニエール病と闘う佐山に病院を紹介、28日には後楽園ホールで開催される「初代タイガーマスク45周年記念イベント」に参加するなど交流をはぐくんでいる。いわば新間さんが2人の絆を結び直した。

佐山と疎遠だった時、そして今の心境を率直に明かした。

 「今、思い返すと兄弟げんかみたいな感じなんですよね。どっちが正しいって言っても、何か…正しくもクソもない話なんですよね。どっちの立場に立ってみればお互いの立場正しくて。それがぶつかったってだけの話で。今はもうわだかまりはないです」

 最後に新間さんへ贈る言葉を尋ねると、前田はほほ笑みながら口を開いた。

 「自分、何か月か前に救急車で運ばれたんですよ。その時に夢の中で猪木さんが目の前に秦の始皇帝みたいな格好をして立ってて。その横に新間さんが立っていたんです。自分が立て膝でひざまずいて見上げたら『お前、今から戦争に行くぞ』って言われたんですよ。えっ?戦争ですか?どこにでしょうって言ったんです。だから、今生の人生終わってもまたどこかで会うんでしょうね」

(取材・執筆 福留 崇広)

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