日米のプロレス界でトップレスラーとして活躍した元NWA世界ヘビー級王者のドリー・ファンク・ジュニアさんが亡くなった。85歳だった。

 28歳で当時、世界最高峰タイトル「NWA世界ヘビー級王座」を獲得しトップレスラーとなったドリーさんは、1969年11月に日本プロレスで初来日した。

 ジャイアント馬場さんが72年10月に全日本プロレスを旗揚げすると弟のテリーさんとの外国人レスラーを招聘(しょうへい)するブッカーも担当した。レスラーとしても看板選手として来日。テリーさんとの「ザ・ファンクス」は1977年12月15日に蔵前国技館で行われた「世界オープン・タッグ」最終戦でアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークとの対戦でテリーさんがブッチャーのフォークに腕を刺されながら優勝し感動を呼んだ。

 81年4月には王座決定トーナメントでテリーさんを破り、力道山から馬場さんへ受け継がれた日本プロレス界の至宝「インターナショナル・ヘビー級王座」を初奪取。その後、ブルーザ・ブロディさんとの抗争で全日本プロレスを活性化させた。

 今年で旗揚げ54年を迎える全日本プロレスの歴史に絶大な貢献を果たしたドリーさんを和田京平名誉レフェリーは「昭和のプロレスラーの最後がドリー。父であるドリー・ファンク・シニアが作り上げた最高傑作でアメリカンプロレスのルーツ。そういう意味では、力道山が作り上げた昭和のプロレスから日本マットに受け継がれてきたアメリカンプロレスが消えたよね。寂しいですよ」と追悼した。

 和田レフェリーが指摘する「昭和のプロレス」とは「スタミナをコントロールするのが昭和プロレス。相手のスタミナを取ってからやっつけるのが鉄則だった。

それは、卓越したテクニックがあるからこそできる」と表現した。

 その「昭和プロレス」を体現したのが弟のテリーさんとのタッグ「ザ・ファンクス」だったという。

 「ブッチャー、シークとあんな激しいプロレスやってもドリーは、冷静沈着な戦い方を貫いた。しかもパートナーはテリーというきかん坊のレスラー。そのテリーを抑えながら闘っていたドリーはすばらしかった。俺に言わせればプロレスのルール…それがドリー・ファンク・ジュニアというレスラーだった」

 1974年のレフェリーデビューから52年。幾多のタッグチームを目撃してきた和田レフェリーは「ファンクスこそ最高峰のタッグチーム」と断言した。

 「タッグチームは、攻める側とやられる側がいなければいけない。やられる側が相手のスタミナを奪い、攻める側が相手をやっつけるのがタッグの王道なんだよね。ファンクスでは、受けたのがドリーで攻めるのがテリーだった。しかもドリーは、テリーという“荒馬”の手綱を引いて乗りこなしていた。戦いながらドリーはテリーにプロレスを教えていたんですよ」

 ファンクスが感動の優勝を飾った「オープンタッグ」は「世界最強タッグ」に名称を変え現在も全日本プロレスでは続いている。

 「今も最強タッグが開催できるのは、ファンクスとブッチャー、シークの闘いがあったからだと俺は思っている。だから、全日本に最強タッグが残っている限りファンクスは永遠なんです」

 80年代前半には、インターナショナル王座を巡りブルーザ・ブロディーさんと抗争を繰り広げ全日本の看板カードとなった。

 「何で外国人同士でメインイベントをやったのか?それはドリーが外国人だけど日本人だったんだよね。しかもその闘い方を(後にインター王者になった)ジャンボ(鶴田さん)に伝えてたんだよね。やられても相手のスタミナを奪えば勝てるんだよって。俺の試合を見ておけって。ドリーはジャンボの先生だった」

 馬場さんもドリーさんからプロレスを学び、プロレスの技術を絶賛していたという。

 「馬場さんの教えでお互いの力を相手に一番、分からせるのがロックアップだと言っていた。そのロックアップをきれいに決めるのがドリーだった」

 リングを離れたドリーさんを和田レフェリーは「普通のおっさんだった」と親しみやすい人柄を明かし「日本食が大好きで納豆が大好きだった。ホテルの朝飯で和食を食べているのがドリーだった。びっくりしたよね」

 2023年8月23日にテリーさんは79歳で亡くなった。

 「テリーが亡くなってドリーが亡くなった…寂しいですよ」

(取材・構成 福留 崇広)

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