戦前は珍しくなかった別会社での路線建設

 かつて「新京阪鉄道」という名前の鉄道事業者が存在しました。名前の通り京阪電気鉄道が1922(大正11)年、天神橋筋六丁目から吹田、茨木、高槻など淀川西岸を経て京都を結ぶ新線を建設するために設立した新会社です。

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 軌道として建設された京阪線は全区間の3分の1が併用軌道区間で、集落を縫うように走るためカーブが多く、輸送力と速達性に課題を抱えていました。そこで新京阪線は主要道路を立体交差で越えて直線的な線路とし、京阪輸送の刷新を狙いました。

 1928(昭和3)年に天神橋~京都西院間が開業し、同区間を34分で結ぶ高速運転を始めますが、多額の設備投資に昭和恐慌の影響が加わって経営は悪化。両社は元々業績安定後の合併を予定していましたが、財政再建を急ぐために1930(昭和5)年に合併して新京阪鉄道は消滅しました。

 最終的に新京阪線は、戦時中の阪神急行電鉄と京阪電気鉄道の合併(京阪神急行電鉄)で阪急の路線となりました。戦後の京阪再分離にあたっても京阪に返還されず、阪急京都線として現在に至ります。

 このように戦前は、同一グループ内で路線ごとに事業者を設立する例は珍しくありませんでした。例えば現在の東急電鉄は、目蒲線(現・目黒線、東急多摩川線)や大井町線は目黒蒲田電鉄、東横線は東京横浜電鉄が建設・運行し、両社は1939(昭和14)年に合併しました。

 東京横浜電鉄は元々、武蔵電気鉄道という独立した事業者であり、免許を取得するも着工できず行き詰っていました。そこで目蒲電鉄と親会社の田園都市会社が出資して、一体的に事業を進めることにしたのです。

 ただ、1924(大正13)年時点で両社が直接保有する武蔵電気鉄道の株式は約27%、関係者を含めても50%程度で、現代的な企業グループとは性格が異なります。当時は事業家や投資家個人が大株主となって経営していたので、事業が失敗しても本体に影響が及ばないよう別会社でスタートし、軌道に乗ってから合併するという手が取られたのです。

京成が新京成に松戸線を任せた理由

 こうした分立構造は、昭和恐慌による旅客需要の急減、バスの普及による競争激化で経営の合理化が求められたことで整理が進み、関東は東急・東武・西武・京成の4社、関西は近鉄・阪急・阪神の3社に集約されました(前述のように一部は戦後、再分離)。

 そんな中、戦後になっても新会社を設立して新線を建設した数少ない大手事業者が京成です。京成は1946(昭和21)年11月に新京成電鉄、1972(昭和47)年5月に北総開発鉄道(2004年に北総鉄道に改称)、1973(昭和48)年2月に千葉急行電鉄(1998年に解散)を設立。戦後に開業した路線のほとんどは、これら子会社を通じて建設されました。

 このうち沿線開発と一体的な鉄道建設を目的とした北総と千葉急行は、自治体が出資する第3セクターとして設立されました。しかし特異なのは新京成電鉄です。新京阪鉄道と同様、本体の出資で設立されながら、2025年4月に京成に吸収合併されるまで78年にわたり独立した企業であり続けたのです。

 なぜ京成は松戸線を直営ではなく、新京成に任せたのでしょうか。最大の理由は京成にとって新京成は、意図せず推進しなければならなくなった事業だったからです。

 松戸線の前身は、旧陸軍鉄道第二連隊の演習線です。戦後、軍の解体とともに施設の払い下げが始まると、政府とGHQの両方に太いパイプを持つ西武が多数の資材を取得し、自社線の復興に活用。次に狙うのは鉄道連隊の資材でした。

 西武は旧鉄道連隊幹部を入社させ、GHQとの交渉を進めますが、寝耳に水だったのが京成でした。京成は自社エリアに対する西武の「侵略」に反発し、同じく鉄道連隊出身者を起用し、GHQとの交渉にあたらせます。

合併前提で設立された新京成

 両社は激しい陳情合戦、接待合戦を繰り広げ、一時は西武が有力視されますが、GHQの日本側窓口が京成担当者の元上官だった縁から、千葉県は京成の営業地盤であること、京成と鉄道連隊が親密な関係を築いてきたことなどを挙げて説得し、逆転勝利を収めました。

 とはいえ下総地域は未開発であり、終戦直後の資金難、資材難の中、新線建設は容易ではないため、子会社に当たらせることでリスクを分散したと思われます。そのため新京成の免許は将来、京成と合併する条件で認められています。

 なお新京成は、出願時の商号を「下総電鉄」としていましたが、「新会社として適切でない」として改称した経緯があります。これも将来的な合併まで、京成が責任をもって支援することを明確にする必要があったのではないでしょうか。

 しかし新京成は1955(昭和30)年に津田沼~松戸間を開通し、1961(昭和36)年に東証二部上場、1970(昭和45)年に創業以来初の株主配当を実施したにもかかわらず合併は実現しませんでした。

 京成電鉄は1950年代から1970年代前半にかけて、新京成株式の約70%を保有していました。しかし急速な事業拡大と土地投資の失敗で、1970年代後半になると経営危機に陥り、グループ経営の大幅な見直しを余儀なくされます。

 その結果、京成本体の保有率は低下していき、1976(昭和51)年は本体54%、グループ会社15%、1979(昭和54)年は本体27%、グループ会社30%となっています。その後、2022年9月に完全子会社化するまで、京成グループ全体で40%強、金融機関など安定株主を加えて過半数という構成が続きました。

 皮肉にも京成の直接支配が弱まったことで、本体が経営危機に陥る中でも新京成は積極経営を続けられました。78年にわたって培われた「下総台地のパイオニア」としての精神は、経営統合後も発揮し続けるのか。「新」たな「京成電鉄」に注目です。

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