野球人生を変えた名将の言動(12)

末次利光が語る川上哲治 前編

(連載11:梨田昌孝が語る西本幸雄の「闘将伝説」 背が高い選手には「ジャンプしながらビンタしていた」>>)

 指導者との出会いが、アスリートの人生を大きく変える。巨人のV9時代にON(王貞治長嶋茂雄)の後ろを打つ5番打者として活躍した末次利光は、川上哲治監督との出会いが野球人生を変えたという。

 インタビュー前編では、川上監督と初めて会った時の印象、多摩川グラウンドで行なわれた厳しいマンツーマン指導、川上監督が球界に起こした数々の革命などを聞いた。

「打撃の神様」川上哲治の指導法 V9時代の巨人の5番・末次利...の画像はこちら >>

【2年間ぐらいまともに口をきけなかった】

――末次さんは川上監督と同じ熊本県人吉市の出身ですが、巨人に入団する前から特別な存在でしたか?

末次利光(以下:末次) それはもう地元の大先輩であり、僕が生まれた時から"神様"のような存在ですからね。私は中央大学の時に「プロに行こうかな」と思い始めたのですが、川上さんの存在が大きかったので、プロに行くなら巨人以外は頭にありませんでした。それで運よく巨人に入ることができましたが、最初はまともに口をきけませんでしたよ。

――プロ入り前に川上監督と接する機会はありましたか?

末次 僕が中央大学でプレーしていた時、吉祥寺にあった大学のグラウンドに、川上さんのほか、牧野茂さんや藤田元司さんら巨人のコーチ陣の方々がいらっしゃったんです。ある程度、僕に関する評判などを聞いた上で「一度見ておこう」ということで来られたと思うのですが、その場で「こうやって打ったほうがいい」など、いろいろと川上さんから直接アドバイスを受けました。それで、間もなく巨人と契約することになったんです。

当時は今みたいにドラフトがない時代で、自由契約でしたから。

――神様のような存在ということですが、お会いされてからイメージは変わりましたか?

末次 見るからに「厳しそうだな」と(笑)。お会いする前からの印象と変わらず、本当にそのままの方だなと思いましたね。入団当初は「おはようございます」「失礼します」と挨拶をするくらいで、会話をしたことがなかった。僕が生まれた時からすごい人で、巨人に入団できて、その人のもとで野球ができるなんて思ってもみなかったので。2年間ぐらいはまともに口をきけなかったんじゃないかな。

【川上が球界に起こした数々の革命】

――川上監督は選手と積極的にコミュニケーションをとられる方でしたか?

末次 直接指導を受けたこともありましたし、選手の心をつかむのはうまかったと思います。それと、コーチの方々の使い方がうまかったですし、とにかくアイディアマンで
球界にいろいろなものを残されましたね。

 メジャーリーグの選手にならって、柴田勲くん(元巨人)にスイッチヒッターになることを進言したのが川上さんですし(柴田は日本人初のスイッチヒッター)、「先発投手以外は二流のピッチャー」と言われていた時代にリリーフ専門のピッチャーを確立したのもそう。夜の8時半ぐらいにマウンドに上がることから、"8時半の男"と呼ばれた宮田征典さん(元巨人)がその草分け的な存在ですが、大成功しました。

 選手の査定に関してもそうです。例えば、試合の出場機会がなくてもベンチで大きな声を出して味方を鼓舞するとか、そういう行動に対しても川上さんは称賛していました。
実際に、年俸査定に反映される時もありましたから。

――"管理野球"で西武黄金時代の礎を築いた広岡達朗さんも、V9時代に川上さんのもとでプレーしていましたが、川上さんは選手の食生活や行動を管理されるようなことはありましたか?

末次 管理、というほどでなかったですね。毎日のミーティングで、成功を収めた著名人の考え方などを話されたり、人間教育に関するお話しすることは多かったのですが、選手の食生活や門限などを管理することはありませんでした。ただ、栄養士を雇ったり、食事の栄養バランスには気を遣っていました。

 それと、十種競技で東京オリンピックにも出場された鈴木章介さんが、巨人のトレーニング専門コーチに就任(球界初)されたのですが、それも川上さんのアイディアなんです。スポーツ医学とか生理学とか取り入れていましたし、球界に革命を起こしたといっても過言ではないと思います。

【打撃の指導を受ける中で味わった不思議な感覚】

――続いて練習についてお聞きします。

多摩川のグラウンドで、川上監督が選手につきっきりで打ち込んだ、という話を聞いたことありますが、実際にはどんな練習をされていたのですか?

末次 ひたすらバッティングですよ。炎天下の中で1時間ぐらいずっとやっていました。ずっと打っていると、30分ぐらい経った頃に意識が朦朧としてくるのですが、同時に集中力がだんだん高まっていくのがわかるんです。

 川上さんは「ボールが止まって見えた」という表現をよくされていましたが、そのバッティング練習をしている時に、私自身もそれに近い感覚になったことがあって。表現が難しいのですが、「ボールだけしか見えなかった」瞬間があったんです。ボールがゆっくり、ゆっくり、来るような感じでした。

――ボールが止まって見える境地に辿り着いたということですか?

末次 ボールが止まって見えるというのは、タイミング、間のとり方なんだと思います。ただ、さすがに「止まって見える」ところまではいけませんでしたけどね......川上さんは神様で、私はやっぱり凡人だったんだなと(笑)。

――指導を受けた中で、ほかに印象に残っていることは?

末次 僕は現役時代に「逆方向(ライト)に打つのがうまい」と言われていたのですが、川上さんの徹底した指導のおかげだと思っています。ヒットエンドランを打つのであれば、「必ず右へ打て。インコースのボールでも右へ打て」と。とにかく叩き込まれたおかげで右中間へ打球が飛ぶようになっていきました。

 バッティングを中心にいろいろと指導していただきましたが、褒められることはあまりなかったですね。おべんちゃらを言うような方でもなかったですし。ただ、打撃練習中に僕の打球が川上さんのイメージに近づいた時には、「今のだよ! 今の打ち方がいいんだ」という言葉はかけてくれました。

――守備に関する指導もされていましたか?

末次 守備に関してはコーチに任せていました。どちらかというと、技術などよりも人間教育を教わることのほうが多かったですね。結局、プロ野球選手は野球しかやってきていないので、社会人としてのいろいろな人とのつき合い方はほとんど知らないじゃないですか。

 例えば、シーズンオフにゴルフをやることが多かったのですが、企業の方々と一緒に回る時に、「ただ一緒に回るのではなく、いろいろなことを吸収するんだぞ」とよく言われました。それと、松下幸之助さん(パナソニック創業者)や本田宗一郎さん(本田技研工業創業者)ら優れた経営者の方々がいかにして成功されたか、ということをミーティングの時によくお話しされていました。
 
 僕が巨人に入って最初のミーティングで言われたのは、「報恩感謝」(恩を受けたことに対して、報いようとすること)という言葉です。つまり、野球人である前に1人の人間であることが大切だと。「今こうして野球をやれるということに感謝しなさい」ということを最初に説かれました。僕は今でもこの言葉を大切にしていて、色紙にサインを書く時には「感謝」という言葉を書いています。

(中編:末次利光が思うV9達成の価値 後期には「バッターとランナーでお互いにサインを出していた」>>)

【プロフィール】
末次利光(すえつぐ・としみつ)

1942年3月2日、熊本・人吉市出身。鎮西高、中央大を経て、1965年から13年間巨人でプレー。川上哲治監督が率いるV9時代に、長嶋茂雄、王貞治と共に5番打者としてクリーンナップを形成した。1971年には日本シリーズMVP、1974年にはリーグ4位の打率.316を残してベストナインにも選ばれている。1977年に引退後は巨人の2軍監督、スカウト、編成部長などを歴任した。