荒木雅博インタビュー(前編)
荒木雅博氏は1995年にドラフト1位で中日に入団以来、選手として23年間プレーした。通算2045安打を記録し、378盗塁は歴代11位。
【まさかのドラフト1位指名】
── 荒木さんが野球を始めたきっかけは?
荒木 小学3年の時にプロ野球のテレビ中継を見たあと、父親とキャッチボールしたのが最初です。その後、地域のソフトボールチームに入りました。
── 高校は屈指の名門校である熊本工に進まれますが、その理由は何ですか。
荒木 中学3年になって、漠然と「プロ野球選手になりたい」と思い始めて、逆算したら名門の熊本工に進むのがベストだろうと考えたわけです。"打撃の神様"である川上哲治さんをはじめ、伊東勤さん、緒方耕一さん、前田智徳さんなど、錚々たるメンバーをプロに送り込んでいましたから。
── プロを現実のものとして意識したのはいつですか?
荒木 高校2年春のセンバツ大会に出場し、3年になって「プロに行けるかな」と思い始めました。中日、近鉄、横浜、広島あたりがあいさつに来てくれたようですが、いずれも3位か4位の指名だったそうです。
── それが福留孝介選手(PL学園高)、原俊介選手(東海大相模高)を抽選で外し、いわゆる「外れ外れ1位」で中日が荒木選手を指名しました。
荒木 抽選が外れたことで私の順位は上がったのですが、正直ドラフト1位で指名された時は「ウソだろ? 勘弁してくれよ」というのが率直な感想でした(笑)。打てる選手ではなかったですし、本当にドラフト1位で指名されるような選手ではありませんでしたから。入学直後の私を見て、レギュラーを獲れると思った人はいなかったんじゃないですかね。
── ドラフト指名されその年にプロ入りした全68人のうち「名球会入り」は、荒木さんひとりだけです。
荒木 ドラフト1位になったことで「プレッシャーが増したのでは......」と言う人もいますが、プレッシャーはなかったです。なにしろ、プロのプレーが全然できなかったですからね。当時「身体能力は一級品だが、野球の技術がない」と言ったコーチもいたそうです。いずれにしても、プレッシャーを感じる余裕なんてなかったというのが正直なところです。
── そんななか、目標とする選手は誰だったのですか?
荒木 熊本工の9年先輩の緒方耕一さんです。
【落合ノックで名選手の仲間入り】
── 落合博満さんが2004年に中日の監督に就任し、荒木さんは全138試合に出場して176安打、打率.292、3本塁打、44打点、39盗塁。ベストナインとゴールデングラブをダブル受賞するなど、一流の仲間入りを果たしました。
荒木 プロ6年目の2001年に111試合に出場したあと、調子に乗って2年間くすぶってしまった過去がありました。
── 落合監督は「荒木の二塁守備はメジャーでもトップクラス」と高く評価していました。
荒木 あれはリップサービスでしょう(笑)。ただ、守備が飛躍的に向上したのは、捕れそうで捕れないとこへ打つ"落合ノック"をひたすら受けたからです。
投手=川上憲伸、一塁手=渡邉博幸、二塁手=荒木雅博、遊撃手=井端弘和、外野手=アレックス、英智
── 打撃もスクエアスタンスからオープンスタンスに変えました。それも落合監督のアドバイスですか。
荒木 オープンスタンスに関しては、誰かに言われたわけではありません。
── 落合監督について「グラウンドではしゃべらないが、私服だとよくしゃべる」と聞いたことがあります。荒木さんの落合監督に対する印象は?
荒木 野球が大好きな人ですから、野球に関してはよくしゃべります。落合監督にはいろいろ勉強させていただきました。なかでも、とくに印象的な言葉あります。「すぐにできると思うなよ。今やって身につかないからすぐやめるのは絶対ダメだ。根気強くやり続けて2年、3年経ってようやく花が咲くんだ」と。落合監督に呪文のように唱え続けられました。要するに「努力に即効性はない」ということです。
── 2011年は落合監督の退任が決まったなか、ヤクルトとの10ゲーム差を大逆転して優勝。選手サイドから落合監督はどう映っていたのですか。
荒木 こんなことを言ってはなんですが、10ゲーム差ですからね。あの時、選手たちは半ばあきらめていました。あきらめていなかったのは、落合監督だけだったのではないでしょうか。知人に『ヤクルト優勝記念号』を制作している人がいて、完成寸前までいっていたのに......さすがに泣いていましたね(笑)。選手それぞれいろんな印象があるでしょうが、私は"泰然自若"という言葉が似合う監督だと思いました。
中編:「意外だった」落合監督の野球につづく>>
荒木雅博(あらき・まさひろ)/1977年9月13日、熊本県生まれ。熊本工高から95年ドラフト1位で中日に入団。02年からレギュラーに定着し、落合博満監督となった04年から6年連続ゴールデングラブ賞を受賞するなど、チームの中心選手として活躍。とくに井端弘和との「アラ・イバ」コンビは中日黄金期の象徴となった。17年にプロ通算2000安打を達成し、翌18年に現役を引退した。引退後は中日のコーチとして23年まで指導し、24年から解説者として新たなスタートを切った