公立の雄・東筑が挑む7度目の夏甲子園(後編)

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 今年6月。高校野球の育成と発展に尽くした指導者を表彰する「育成功労賞」の受賞者49名が発表された。


 
 育成功労賞は、高校野球部(軟式を含む)の監督か部長を原則として20年以上務めた指導者を対象に、各都道府県高野連からの推薦を受け選出(北海道、東京都は2名ずつ)。福岡県からは東筑高で指揮を執る青野浩彦監督が選ばれた。

【高校野球】公立の雄・東筑の青野浩彦監督は「常識を疑う」 原...の画像はこちら >>

【高校3年夏に東筑の主将として甲子園出場】

 6月29日に65歳の誕生日を迎えた青野監督は、「長くやっただけだから」と謙遜するが、43年に及ぶ指導歴がひとつの形となり、実を結んだことに違いはない。母校の東筑を率い、1996年夏、1998年春、2017年夏、2018年春と甲子園に4度導いた。

 そして今春は15季ぶりに県大会を制し、長崎県で行なわれた九州大会に出場。選手時代と合わせ、九州大会開催全8県を「コンプリート」した。公立校一筋での達成は異例と言っていいだろう。

 現役時代は捕手としてチームを引っ張った。主将として臨んだ3年夏の1978年は60回の記念大会。福岡大会では初めて開会式が行なわれた。

「今では普通ですけど、当時、東筑が初めてメッシュのユニホームを採用して、『穴が開いてるやん!すげえ!』と驚かれた記憶がありますね」

 その夏、東筑は6年ぶり3度目の甲子園出場を果たすことになる。福岡県の参加校数が110校だったことから、新聞には『110(百獣)の王』の見出しが躍った。甲子園では、OBの仰木彬さん(元近鉄、オリックス監督)もなし得なかった同校初勝利で勢いに乗って2勝し、3回戦まで進出した。

 甲子園は広いファウルゾーンも印象的だったが、何より驚いたのは、ベンチ内で氷がいっぱいに張られたクーラーボックスに入れられたドリンクが飲み放題だったことだ。運動中は水分を摂ってはいけないという教えが色濃く残っていた昭和の時代に見た光景が、「常識を疑う」という指導の原点になっている。

「みんな感激して、そこから離れませんでしたね(笑)。その時に初めて『野球をしている時に水を飲んでいいんだ』と思いました。水を飲んだらいけないというのは一体何だったんでしょうね」

 長距離走にも疑問を持っていた。高校でも、進学した筑波大でもマラソン選手のように走らされたが、「野球選手なのに長距離を走ることに何の意味があるのか」という思いが脳裏から離れることはなかった。

【指導者人生のスタート】

 大学卒業後は一般企業への就職を考えていたが、東筑の恩師である喰田孝一(しょくた・こういち)さんからの一本の電話がその後の人生を変えることになる。聞けば、公立の北九州高校が、軟式野球部を硬式野球部として新設するので、そこで指導者にならないかという。保健体育の教員免許は取得していたため、「ちょっと行ってみようかね」と軽い気持ちで故郷へと戻った。

 そして1983年春、北九州に講師として迎えられ、長い指導者人生がスタートした。
 
 初日の練習は雨だった。とりあえず階段を繰り返し走らせたら、翌日には数人が立ち上がったばかりの部から消えた。走ることに疑問を持ちながらも、科学的なトレーニングなど皆無だった時代。

雨であれば、できることは限られていた。

「あの時、階段を走らせて辞めた生徒からのちに、『僕、じつは部に入っていたんですよ』と言われたこともあります(笑)。北九州時代はけっこう走らせていたと思います」

 その後、正式に北九州の教員となり、監督就任から10年目の1992年春には柴原洋さん(元ソフトバンク)が4番エースとして活躍。佐賀で行なわれた九州大会に初出場し、8強まで進出するなど、徐々に存在感を示していった。

「柴原は中学時代から軟式で評判の選手でした。高校では(両翼100メートルの)桃園球場で2連発したこともあったし、こんなに打球が飛ぶんだという印象でした」

 ただ、北九州を甲子園へ導くことはできず、1994年春から母校の東筑に異動し、副部長に就任。その夏限りで勇退した喰田さんに変わり、同年秋から指揮を執った。まずは、東筑の伝統でもあったランメニューを少なくし、野球の動きに極力時間を割いた。

「選手たちはランニングじゃなくて野球をしにきています。東筑は進学校で授業も大変なので、走らせる時間がもったいないんです。冬でも走り込みはまったくやらず、年中、野球をやっています。冬の間、まったく投げずに、春にかけて肩をつくり直すのが嫌なんです。

筋トレで体が変わると可動域とかも変わってしまい、そこから肩をつくり直すとケガの原因にもなるので、ずっとボールを使わせています」

【東筑の監督として4度の甲子園】

 母校の改革はすぐに、そして思わぬ形で結果として表われる。就任1年目の夏こそ初戦敗退だったが、翌1996年夏、東福岡と福岡大会決勝で激突した。1点を追う9回一死満塁から平凡な遊ゴロに、誰もが併殺で試合終了と思った次の瞬間、遊撃手が二塁へ悪送球。一気に二者が生還し、逆転サヨナラで9年ぶり5度目の夏の甲子園の切符をつかんだ。

「打った瞬間、『あっ、ゲッツーだ』と。『いい試合でよかったな』と思いましたね。そしたら悪送球で......。何であんなショートゴロを打ちよるんでしょうね(笑)」

 毎試合のように打順を変える「猫の目打線」で甲子園でも1勝し、自身の現役時代には途中までしか流れなかった1分43秒もある校歌をフルコーラスで歌いきることができた。三井由佳子さんが史上初めて女子マネジャーとしてベンチ入りしたことでも話題となった。

「三井の横にいたらテレビに映ると思っていつも横にいました(笑)。試合ではやっぱり調子のいい選手を使うべきだと思っているし、4番でも調子が悪くて打てないんだったら、下位で気楽に打たせたほうがいい。経験のなかで固執してもしょうがないなと思っています」

 1998年春の選抜に出場したあと、九州国際大付など私学の台頭もあり、長らく甲子園からは遠ざかり、2010年に鞍手高校へ異動となる。

甲子園出場経験がない鞍手の打力を伸ばすために技術本を買い漁り、独学で勉強して指導に生かした。

「理想はバットの動きと腰の動きを平行にすること。アッパースイングなのに腰は地面と水平に回っていたらバットはスムーズに出ないし、力が入りません。今でもそれを基本に教えています」

 鞍手での指導も6年目を終え、ようやく自身の教えが浸透し始めていた2016年春。再び東筑へ戻ることになった。後ろ髪を引かれる思いもあったが、切り替えて後輩たちの指導に集中。

 1年目の夏はまたも初戦敗退だったが、翌2017年夏、2年生エースの石田旭昇(法政大→現・FBS福岡放送アナウンサー)を擁し、21年ぶり6度目の夏の甲子園出場を決めた。

 翌2018年春の選抜にも2季連続、20年ぶり3度目の出場を果たす。春夏計9度の甲子園で、石田姓のエースがじつに5度と、『石田伝説』も受け継がれている。

 青野監督は8月15日、育成功労賞の表彰式のため、選手たちより一足早く聖地の土を踏むことが決まっている。8年ぶり夏の甲子園を決め、自身の現役時代と同じく2回戦まで突破すれば、当日に3回戦を戦う可能性もある。

「9回まで負けていたらドキドキはしないけど、勝っている時は試合が進まず、ドキドキします。

1勝をするためにめちゃくちゃ考えて、勝ったら次、そしてまた勝ったら次という考えは変わりません。いつでも甲子園に行きたいと思ってやっています」

 公立校ながら、福岡北部第1シードと優勝候補で臨む今夏。青野監督の胸の鼓動は、当分の間収まりそうにない。

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