ダイヤの原石の記憶~プロ野球選手のアマチュア時代
第11回 今宮健太(ソフトバンク)
8月27日、楽天戦の4回に送りバントを決め、400犠打を達成したソフトバンク・今宮健太。その5日前には通算100本塁打を達成しており、100本塁打と400犠打の同時達成は、日本初どころか世界初の快挙だ。
大分・明豊高時代の今宮は、通算62本塁打の強打者であり、投げては150キロ超えを計測する快腕だった。
【花巻東との再戦で衝撃の154キロ】
「154」。衝撃の数字が、スコアブックに記してある。
2009年8月21日、第91回全国高校野球選手権大会の準々決勝第1試合、花巻東高(岩手)との対戦。先発した今宮は、4回までに4点を失って降板したが、花巻東のエース・菊池雄星(現・エンゼルス)も、背筋痛により5回途中で降板。
すると明豊は救援陣をとらえて8回に6対4と逆転した。だが花巻東も9回に3連打で同点とし、なおも一死二塁だ。ここで、サードに回っていた今宮が、ふたたびマウンドに立つ。
6対6と1点もやれない場面。花巻東には、この年の選抜2回戦で敗れている。菊池から9安打を放ちながら12三振。
その思いの強さが、興南(沖縄)・島袋洋奨(元ソフトバンク)からのサヨナラ勝ち、そして西条(愛媛)・秋山拓巳(元阪神)の攻略につながった。さらに、庄司隼人(元広島)擁する常葉橘(静岡)を延長12回で破り、ベスト8進出を果たした。
そういう執念で実現した、花巻東との再戦。9回に追いついた花巻東には勢いがあるが、おいそれと負けるわけにはいかない。今宮のボールに、気迫が乗る。佐々木大樹への初球から全開だ。149キロの真っすぐ。この時に三盗を許し、さらに絶体絶命となったが、ホームさえ踏ませなければいいだろうと次は152キロ。ツーストライクと追い込むと、次はボールとなったが154キロ。
結局、最後は129キロの変化球で空振り三振。ストレートと20キロ以上の緩急差に、佐々木大のバットはかすりもしなかった。つづく斉藤奨にも、154キロを含むすべて150キロ超のストレートで追い込み、最後はやはり変化球で空振り三振。球場が大きくどよめく。
「こちらが間を取ろうというタイムさえ取り忘れていたのに、よく抑えてくれました」とは、当時の明豊・大悟法久志監督である。
171センチという小さな体のどこに、そんなエネルギーがあるのか。最終的には延長10回表、三塁手のミス(記録はヒット)から許した走者に勝ち越しのホームインを許して敗れたが、今宮は当時、笑顔で振り返っている。
「選抜からの努力? スポーツ選手ですから、努力するのは当たり前です。154キロ......そんなに出るとは思いませんでした。もう少し体があればピッチャーでもいいんですけど、こんな自分でも150キロを投げられるって、子どもたちに伝わったかな」
【ほろ苦い甲子園デビュー】
さかのぼって、2007年秋。1年生ながら明豊の背番号1を背負った今宮は、九州大会決勝で、翌年の選抜を制する沖縄尚学高を1失点で完投している。最速138キロながらカーブ、スライダー、チェンジアップ、シンカーなどの多彩な変化球を駆使した投球術は安定感があった。
その秋は、公式戦10試合に登板して防御率2.04。ただし、並外れた運動能力とセンスは「本来なら打者に専念させ、ショートかセカンドに置きたい」(大悟法監督)ところ。なるほど、投手成績もさることながら、公式戦打率は.540、練習試合を含めて6本塁打は、下級生ながらいずれもチームトップなのだ。
初めて今宮と会ったのは2008年冬、選抜を控えた時期だった。たまたま雨でグラウンドが使えず、校内での取材。勝ち気そうな凜々しい眉で、表情がよく動く。こちらの目を見ながら、はきはきと自分の言葉で話す姿は、野球が好きでたまらない野球小僧そのままだ。
父・美智雄さんが監督を務める、別府大平山少年野球部で野球を始めた。幼稚園の頃から、小学生に交じって試合に出ていたという。投手を始めたのは小学校3年で、明豊中3年時には、エースとして軟式野球の全国大会に出場している。
高校に進むと、すぐにショートの定位置を獲得したが、「硬式と軟式では、ボールの重さや速さ、弾み方などにギャップがあって。とくにゴロは、いまも捕りきらんのです」と語っていた。
今宮が高校1年の夏、大分の3回戦で敗れると、大悟法監督は今宮を投手に抜擢した。ことに外角低めの制球がよく、自滅することがないためだ。見込みどおりに、投手の軸に成長。打撃との両立に配慮した大悟法監督が好きな打順を選ばせると、「自分で点を入れ、自分で抑えて試合をつくりたい」と、エースとしては異例の1番を打ち、投打の活躍で、チームを選抜初出場に導いた。
だが、2008年の選抜はほろ苦いものとなった。相手は常葉菊川(静岡)。前年の選抜を制し、夏はベスト4、さらに秋の神宮大会でも優勝した実力校だ。その強豪を相手に、長打4本を含む10安打を浴び、6失点で敗れてしまった。今宮は当時をこう振り返っている
「さすがは全国ナンバーワンの打線です。ほんの少し甘くなったら打たれる。まだ、日ごろが甘いということ。
【投打で存在感示し甲子園初勝利】
その夏の明豊は大分の準々決勝で敗れたが、今宮自身は、大分大会の3回戦終了まで14回2/3を無失点に抑え、球速も146キロまでアップした。投手に手応えがあったのだろう、今宮はこう語っていた。
「選抜で常葉菊川に負け、夏も甲子園に出られなかった。投手で勝負したいという気持ちになりました」
あえて炎天下の時間帯を選んで走り込み、スタミナアップに努めたのはそのためだ。新チームでは大分を制し、秋の九州大会でも今村猛(元広島)のいる清峰(長崎)に敗れたが、ベスト4。
この2008年秋は背番号1を背負い、6試合34回2/3を投げて防御率1.30と成長を印象づけた。「投げることはもちろん、打つほうでも自分がチームを引っ張るつもり」と、打っても公式戦の打率.396、練習試合を合わせれば9本塁打と、投打で存在感を増していた。
そして、2度目の甲子園となる2009年の選抜は、1年前と違って背番号5で三塁を守り、打順も3番。下妻二(茨城)との初戦は、初回のタイムリーを含む3安打し、投げても9回に救援登板すると、最速149キロをマークしてアウト3つを三振で奪い、見事な"抑え"役を果たした。だが、2回戦で花巻東・菊池に敗れたのは先述のとおりだ。
投手としての才能も非凡ながら、今宮はこの頃から、野手としての将来を視野に入れ始めたのではないか。菊池という超一流の才能と対戦したことで、自分の限界を悟ったのかもしれない。
「選抜のあとは、野手としての練習が多くなりました。だから、人一倍練習してきたという自負はあります」
【大分大会で3打席連続本塁打の離れ業】
あるいは選抜以後、内角が今宮の弱点と見て取った相手投手は当然、そこを攻めてくる。それを克服するために、「菊池くんに打ち取られたVTRを繰り返し見て」、マウンドより近い距離から思い切り内角に投げ込まれる球を、繰り返し打ってきた。それらの日々が実ったか、7月の練習試合では、清峰の今村からホームランを放っている。
「今村くんから打てたあの1本は大きい。左手をうまく使えるようになりました」と、迎えた2009年夏の大分大会では、日田との初戦で3打席連続ホームランの離れ業。いずれも、苦手だった内角をはじき返してのものだ。
その夏の大分大会5試合での遊撃手・今宮は無失策、3番として打率5割、3本塁打、8」打点を記録した。投手としても、楊志館との準々決勝を完封、日田林工との決勝を1失点完投している。だが、投球回は19。もうひとりのエース格が17回1/3だから、二刀流との決別が近づいていたのかもしれない。
春夏連続出場となった2009年夏の甲子園では、興南戦で2安打1打点、西条との2回戦は目立たなかったが、常葉橘戦では3安打3四球の出塁率10割で1打点。9回には同点の一打を放ち、大悟法監督は野手としての今宮のセンスを絶賛している。
「相手の庄司くんは好投手。『大きいのは狙うな』と言うだけで、指2本分バットを短く持って対応していました」
そして冒頭、花巻東との名勝負である。結局は延長10回、6対7で敗退し、菊池に対しては2打数無安打だったが、「対戦できてよかった。最後まで勝負できたらよかったけど」と、ライバルの途中降板にちょっぴり残念そうな表情も見せている。
打って、投げて、守って。3季7試合で甲子園を魅了した野球小僧は、のちに球界を代表するショートに育った。広い守備範囲、そして捕球すれば154キロの強肩。打者としては、スラッガーだった高校時代とはまた別の、味のあるつなぎ役。それが400犠打、100本塁打という快挙につながった。