日本人F1ドライバー「夢の系譜」
【第1回】中嶋悟
F1──そこは、かつて日本人ドライバーにとって、あまりにも遠く、まばゆい憧れの場所だった。
異国のサーキットにひとり立ち向かった先駆者から、その背中を追い続けた後継者たちへ。
これは、最速に魂を焦がした男たちがつなぐ「夢の系譜」である。あの日、私たちが夢中で追いかけたサムライたちの記憶を振り返る。
※ ※ ※ ※ ※
歴史というのは、人が作るものだ。誰かが初めて道を切り拓いた時、歴史は作られる。そういう意味で、日本人F1ドライバーの歴史を築いたのは、中嶋悟にほかならない。
1987年、ロータス・ホンダでF1デビューを果たした中嶋は34歳。当時としても遅咲きのF1昇格だった。
中嶋にとっては、10年かけてようやく辿り着いた夢だった。
1977年にFJ1300でチャンピオン、全日本F2000選手権で3位となった中嶋は、翌1978年にイギリスF3選手権にスポット参戦。この頃から「ヨーロッパで戦いたい」という強い思いを抱き、1982年には生沢徹の下でヨーロッパF2選手権参戦を果たすが、チームの資金不足でわずか5戦での撤退を余儀なくされてしまった。
その夢を捨てきれない中嶋は、当時ジャイアンツの江川卓以上と言われた破格の契約金を提示したハラダ・レーシングと契約を結び、その契約金を元手に中嶋企画を設立し、ヨーロッパ再挑戦を模索。
並行してF1に参戦するホンダのテストドライバーを務め、ウイリアムズの1984年型マシンにテストエンジンを積んで開発を担ってきた。それだけフィードバック能力と開発能力が高いという証であり、中嶋としてもF1マシンの経験を積むことができた。
そして1986年には、国際F3000へと挑戦。生活拠点をロンドンに移し、F1へのステップアップを視野に入れた。ホンダからのサポートもあったとはいえ、中嶋自身も全日本F2で得た自己資金を投じての挑戦であり、ホンダもまだこのシーズンを迎える頃には勝ち始めたばかりでしかなく、その後の黄金期が想像できていたわけではなかった。
【日本人のイメージを変えた】
ヨーロッパで孤軍奮闘する中嶋に、翌年からホンダ・エンジンを積むことになったロータスからオファーが寄せられたのは1986年の7月だった。
当時はまだ、今よりも何倍も遠い世界だったヨーロッパへ、執念とも言える挑戦を続けたからこそ舞い込んだチャンス。もちろん速さやテクニック、経験、ホンダとの関係値など、あらゆることが揃ったからこそのオファーだったが、その根底にあったのは、中嶋が10年にわたってあきらめることなくその場所を目指し、夢を実現するために努力し続けたという事実だ。
34歳の遅咲きデビュー。
ともすれば、それはネガティブな意味で言われがちだ。しかし、それゆえに中嶋は誰よりも、F1という世界に挑むことの価値も難しさも知っていた。レーシングドライバーとしての経験も、人間としての厚みも身につけていた。
だからこそ、日本人にとって未知の世界であったF1に挑み、戦い、F1村に認められるという「歴史」を作ることができた。
アイルトン・セナ、ネルソン・ピケ、ジャン・アレジといったきら星のごときドライバーたちをチームメイトに迎えて、潰されることなく戦い、ロータスやティレルといった名門チームで走り、F1界において優れたドライバーとしてのリスペクトを得た。
おそらく、中嶋以外のドライバーであればそうはならなかっただろうし、日本人ドライバーというものへのイメージは違ったものになっていたはずだ。
初年度はブラジルのジャカレパグアやモナコといった未知のサーキットに加え、ロータス99Tが搭載した熟成不足のアクティブサスペンション、ステアリングの重さや前後左右Gの厳しさとの戦いだった。
それでも、年間16戦で4位1回、5位1回、6位2回。当時の選手権では入賞4回だが、トップ10フィニッシュは8回。今のF1に置き換えれば、初年度としては決して悪いリザルトではない。
【「雨の中嶋」はF1でも速かった】
1988年はイギリスF3時代に縁のあったピケと組み、純粋な速さの差は小さかったものの、トラブルが多く入賞は1回のみ。1989年はホンダ・エンジンを失って非力なジャッドで苦戦し、チームも体制が変わって弱体化が進んでしまった。
1990年にはティレルに移籍し、1991年はホンダV10エンジンを積んで躍進が期待されたが、重量バランスが悪化し、それを補うための軽量ギアボックスにトラブルが頻発。ティレルはピレリタイヤのレース性能にも苦労させられた。決して恵まれたF1キャリアではなかったと言うべきだろう。
5年間80戦で74出走、完走35回、4位2回、5位2回、6位6回、7位5回、8位6回、9位2回、10位4回、11位以下が8回。
だが、今のポイントシステムで言えば、実に27回の入賞。決して派手ではないが、中嶋のF1キャリアの魅力や本質はリザルトには表れない部分にあったと言うべきだろう。
「雨の中嶋」
その言葉が一躍有名になったのは、豪雨の1989年アデレード(第16戦オーストラリアGP)だった。非力なジャッド・エンジンに泣いたシーズンの最後に、その不利が出ないウェットコンディションで4位を快走。ファステストラップを記録して3位のリカルド・パトレーゼ(ウイリアムズ)を追い詰め、水煙によるミスファイアがなければ表彰台獲得もあり得たレースだった。
雨ならステアリングが軽くなり、体力的な負荷が減る。そうなると、中嶋本来のマシンコントロール能力が存分に生かされる。それが「雨の中嶋」だった。
1988年スパ・フランコルシャン(第11戦ベルギーGP)の予選1日目も、雨で2番手タイム。1991年サンマリノGP予選2日目も4番手タイムを刻み、ウェットコンディションの決勝も10番グリッドから4位まで浮上して快走を見せた。
パワーステアリングもなく、マニュアルシフトで片手運転しなければならない時代。
【中嶋だったからこそ今がある】
今のようにF1に辿り着くまでデビューから10年もかからない時代であれば、中嶋のF1キャリアはもっと違ったものになっていたかもしれない。しかし、それだけのキャリアを積んできたからこそ、中嶋はF1という未知の世界に適応し、開発能力や基礎ドライビング能力を高く評価され、F1村でリスペクトされる存在になり得たのだとも言える。
日本人ドライバーも捨てたもんじゃない──。
F1界にそう知らしめたからこそ、中嶋に続く日本人F1ドライバーたちが続々と誕生し世界へと羽ばたいていった。
中嶋が切り拓いたのはそんな歴史であり、中嶋が先駆者となったからこそ成し得たのだと思う。
自らの意思で、1991年限りでF1から去った中嶋は現役も退き、その後はチーム運営者として幾多の若手を育ててきた。自らのチームで積極的に若手を起用するかたわら、鈴鹿レーシングスクールの校長を務め、スカラシップから漏れた角田裕毅を見出してF1へのチャンスを切り拓いたことでも知られる。
中嶋だったからこそ日本人初のフルタイムF1ドライバーは誕生し、中嶋だったからこそ日本人F1ドライバーの歴史が築かれ、今という時代があるのだ。
(つづく)
◆【第2回】鈴木亜久里>>



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