きのう(12月16日)実施された東京都知事選挙で、前都副知事の猪瀬直樹が当選した。直木賞作家の青島幸男、芥川賞作家の石原慎太郎に続き、これで3代続けて作家出身者が都知事を務めることになる。


とはいえ、前任者の石原慎太郎が大学在学中、20代で華々しくデビューして一躍時代の寵児となったのに対し、猪瀬が文筆活動を始めたのは30代と遅咲きの部類に入る。ちなみに国立国会図書館の雑誌記事検索で出てくる彼のもっとも古い署名記事は、30歳のときに「現代の眼」という雑誌に書いた「院生老い易く職得難し――博士浪人」(同誌1977年4月号)というもの。何だか昨今のポスドク問題を先取りしたようなタイトルだが、猪瀬自身、大学卒業後は定職に就かないまま《十数枚の名刺を使い捨てた二十代を経て》『ノンフィクション宣言』)文筆生活に入っている。

猪瀬の初めての著書は、1983年3月、36歳のときに上梓した『天皇の影法師』だ。その後もこの年だけで、『昭和16年夏の敗戦』『日本凡人伝』『死者たちのロッキード事件』と計4冊の本を刊行している。これはたまたま刊行時期が重なったのではなく、きわめて戦略的なものであったと考えたほうがよいだろう。
これらの本を踏まえて今後は活動を続けていくのだ――そんな彼の決意が読み取れるほど、この4冊にはその後の彼の仕事を予感させる要素が随所に見られる。まさに「処女作にはその作家のすべてがある」という言葉を地で行くように。

まず『天皇の影法師』は、大正天皇崩御の直後、ある新聞社が新元号を誤って報じた事件の真相や、天皇の柩をかつぐ八瀬童子の謎に迫るなど、新たな切り口から天皇制を考察したものだった。その方法論は、『ミカドの肖像』(1986年)、『土地の神話』(1988年)、『欲望のメディア』(1990年)のいわゆる“ミカド三部作”に引き継がれ、さらなる発展を見た。

さらに『昭和16年夏の敗戦』では、太平洋戦争勃発の4カ月前に、対米戦争に突入すれば日本は敗けるとの結論を導き出した若手官僚グループにスポットをあてた。一方、『死者たちのロッキード事件』では、戦後最大の疑獄事件であるロッキード事件の“脇役”たちを追いかけるとともに、戦後の日本政治のひとつの典型となった、田中角栄に象徴される利権政治にも言及されている。
前者で俎上にあげられた日本の官僚システム、後者における公共事業に対する問題意識は、のちの『日本国の研究』(1997年)などの著書、そして猪瀬が現実政治の世界に飛びこむきっかけとなった道路公団の民営化への取り組みなどにつながっていくことになる。

最初の4作のうち『日本凡人伝』はやや異色の作品かもしれない。インタビュー雑誌だった「スタジオボイス」で連載された同作は、「インタビュー・ノンフィクション」と銘打ち、市井の人々を相手にそれぞれの仕事や経歴について話を聞いたものだ。そこでは都バスの車掌、捕鯨砲手といった当時消えつつあった職業人のほか、工業デザイナーとしてソニーのウォークマンの開発に携わった黒木靖夫のようにその筋ではわりと知られた人物も登場する。

この本にも、のちの猪瀬の仕事を予感させる内容が見てとれる。たとえば、営団地下鉄(現・東京メトロ)の職員へのインタビューは、今回の都知事選の公約のひとつである「東京メトロと都営地下鉄の経営一元化」ともろにつながる。
もっともインタビュー中には地下鉄の経営に関する話題はほとんど出てこないのだけれども、この仕事を通じて猪瀬が地下鉄に大きな関心を抱くようになったことは想像にかたくない。それが証拠に、地下鉄職員との会話中、チラッと出てくる銀座線の「幻の新橋駅」について、猪瀬は後年、『土地の神話』のなかで、なぜ「幻」になったのかその真相を追究している。さらに時代を下り、副知事時代に著した『地下鉄は誰のものか』(2011年)では、『土地の神話』の内容も踏まえたうえで東京の地下鉄の歴史をひもときながら、現在の地下鉄の経営問題について解説されている。

さて、猪瀬が36歳まで著書をなかなか出さなかった理由としてはいまひとつ、“師”の存在が考えられる。1946年に長野県に生まれた猪瀬は、60年代後半、全国的に学生運動の嵐が吹き荒れるなか、信州大学の全共闘議長を務めた(もっともマルクス主義には懐疑的であったようだが)。その後、学生運動が退潮するなかで、言葉への嫌悪感を抱いた彼は、本を読むことや議論をすることもなく、しばらく肉体労働に従事していた時期もあるという。
だがそのうちに、いま一度、学生運動の体験から突き当たった問題を自分なりに解決したいという思いから、1972年、明治大学の大学院に入り、文芸評論家でナショナリズムの研究者であった橋川文三に師事することになる。

大学院修了時には修士論文を提出したものの、まだ満足しきれるものではなかった。自分自身をもう一度つかみ直そうと決意して大学を離れた彼は、あらためて「宿題」に取り組むことになる。その後《雑誌の記事を書きはじめて生計をたてるようになってから、出版の機会はちらほらあったが全部断わっていた》公式サイトのプロフィール)のも、何とか橋川に認められるようなものを書きたいという思いもあったからだろう。処女作『天皇の影法師』が出たとき、猪瀬は8年ぶりに橋川に会うと本を渡し、「文章はいい」と言われて胸をなでおろしたという(『僕の青春放浪』)。なお、橋川が亡くなったのはこの年の12月17日のことだった(ちょうどきょうで30回忌を迎える)。


橋川に学んだ経験から、猪瀬はその後いまにいたるまで日本の近代を再検証する仕事に取り組むことになる。2001年から翌年にかけて全12巻が刊行された著作集のタイトルも『日本の近代 猪瀬直樹著作集』というものであった。ひとつの大テーマのもと全集を刊行できたのは、やはり彼がかなり緻密に計画や戦略を立てて作品を発表していったからだろう。

最初の単行本4冊を出したのち猪瀬は、スポットの仕事は一切引き受けず、週刊誌での連載にすべてを集中する。その根底には、あくまで自分が書くのは「記事」ではなく「作品」であるという、30代前半の頃に本田靖春の『誘拐』(1963年に起こった児童誘拐殺人事件を追ったノンフィクション)を読んで衝撃を受けて以来の考えがあった。彼はまた、自身の戦略について次のように具体的に書いている。


《人生にコストをかけてきた人なら、誰でも一冊や二冊は書ける。だが作家として継続的な生産活動をしていくためには、再生産を前提として仕事をしなければならない。そのためには自己に鞭打ち、叱咤激励するために締切りを設定し、取材コストをかける必要がある。安い原稿料ではとうてい不可能だから、必然的により多くの部数の出ている雑誌が舞台となるのだ。週刊誌は月に四回刊行されるから、月刊誌の四倍分の部数と考えてよい》(『僕の青春放浪』)

こうした考えのもと、彼は小学館の「週刊ポスト」で前出の“ミカド三部作”以降、20世紀初頭に書かれた架空戦記などを手がかりに日米関係史をひもといた『黒船の世紀』(1993年)、それから『ペルソナ 三島由紀夫伝』(1995年)、『マガジン青春譜』(1998年)、『ピカレスク 太宰治伝』(2000年)と“近代文学三部作”ともいうべき作品を連載していくことになる。このうち『ペルソナ』はもともと文藝春秋から書き下ろしで依頼されたものだが、それでは予算的に帳尻が合わないので週刊誌連載となったのだとか。

前出の近代文学三部作は、執筆活動をいかにビジネスとして成立させるかという問題意識から生まれたものだったともいえる。三部作完結ののちNHK教育の番組テキストとして書き下ろされた『作家の誕生』(2007年)は、3作の内容を踏まえつつ、あらためて日本の近代文学史を再編したものだ。そこでは明治時代の“投稿少女”たちから戦後の三島由紀夫までたどりながら、作家の社会的地位がいかにして確立されていったのかが検証されており、従来の教科書的な文学史とはまったく色合いを異にする。

文学史に取り組んだこれらの仕事は、ぼくが猪瀬の本でいちばん好きな『ノンフィクション宣言』にも内容的に接続することができるかもしれない。こちらは、足立倫行、山根一眞、吉岡忍、関川夏央、青木冨貴子、沢木耕太郎ら、猪瀬と同世代の同業者たち――「団塊の世代」のノンフィクション作家たちとの対談をまとめたものだ。時期的(1987~88年)にワープロが普及し始めた頃に収録されたものだが、その使い方を見ると、猪瀬がコンテもなくいきなりワープロに打ち出すのに対し、沢木耕太郎はまずサインペンで草稿を書き、そのあとでシャープペンシルで清書して、最後にワープロに打ちこむという具合に、両者のパーソナリティの違いが現れていて面白い。こうした作家同士の会話も、もっと時間が経てば文学史の資料として貴重な証言となりそうだ。

ところで、猪瀬は前出の沢木との対談のなかで、《やっぱり男の子というのは大人になるのに三十年ぐらいかかるんだね、自分が何であるかをつかむのに》とも語っている。ひるがえっていま、長引く景気低迷もあり、社会や企業は即戦力となる人材を求め、若い世代は激しい競争のなかに投げこまれている。そのなかにあって、無駄が入りこむ余地はなかなかなさそうではある。しかし無駄の大切さを知っている猪瀬だからこそ、都知事になってもその政策に自身の人生経験を反映してくれるものだと信じたい。(近藤正高)