1963年11月22日にジョン・F・ケネディ米大統領が遊説先のテキサス州ダラスで暗殺されてから、きょうで54年が経つ(ただし、事件発生は日本時間では翌23日)。ちょうど先月より、米国立公文書館がケネディ暗殺関連の文書の一部を機密解除し、断続的に公開している。


ケネディ暗殺は、容疑者として逮捕された男が事件直後に殺害されていることもあり、いまなお謎が多い。それだけに今回の文書公開で、真相がどの程度あきらかになるのか、注目されている。
ケネディ暗殺から54年。衝撃の文書公開で何が明らかになったのか
ビル・オライリー&マーティン・デュガード『ケネディ暗殺 50年目の真実 KILLING KENNEDY』(江口泰子訳、講談社)。ケネディと容疑者オズワルドの軌跡を並行してたどり、やがて交錯させるという構成は、沢木耕太郎のノンフィクション『テロルの決算』を思い起こさせる

冗談を真に受けて立てられた? カストロ暗殺計画


今回、機密が解除された報告書のなかには、米中央情報局(CIA)がキューバの国家評議会議長だったフィデル・カストロ(昨年11月25日死去)を暗殺するため、奇想天外な手口を検討していたことを詳細に記したものもあったという。

もっとも、CIAがカストロ暗殺を企てていたことは、以前より公然の事実だった。そもそも1959年、アメリカのすぐ真裏のカリブ海に浮かぶキューバで革命を成功させたカストロは、共産勢力の拡大を止めたいアメリカ政府にとって目の上のたんこぶであった。

昨年刊行された細田晴子『カストロとフランコ──冷戦期外交の舞台裏』(ちくま新書)によれば、ケネディが大統領になる直前、スパイ映画007シリーズの原作者であるイギリスの作家イアン・フレミングに「ジェームズ・ボンドならばカストロをどのように暗殺するか」と訊いたことがあった。フレミングは冗談で3つほどアイデアを出したが、CIAはこれをまともに受け、実行に移したものの、いずれの策も成功しなかったという。


CIAがカストロ暗殺のため企てた策にはたとえば、女性を送り込んで飲み物に薬物を入れようという計画があった。しかしこれは、カストロに惚れていた彼女が薬を流してしまったので大事にいたらなかったらしい。あるいはX線検査のときに規定以上の放射能を浴びせて癌を発生させようとしたり、葉巻に毒を盛ったりする計画も考えられた。また、カストロが演説する際、マイクに高電圧を流そうとしたのがバレてしまったこともあった。

『カストロとフランコ』にはこのほか、カストロの服に細菌あるいは化学物質が付着しているのが発見されたという事実が紹介されている。今回公開された報告書にも、著名な弁護士ドノバンが、皮膚病や呼吸困難を引き起こす細菌をまぶしたダイビングスーツをカストロに贈呈する計画が記されていた(参照)。
これもまた、ドノバンが「友情の印」として菌に汚染されていないスーツをカストロに渡したため、失敗に終わったという。それにしても、これだけ命を狙われながら、カストロは90歳で天寿を全うしたのだから、よっぽど悪運が強かったというしかない。

ケネディ持病の腰痛が暗殺の伏線に…?


機密が解除された文書について、現在までに報じられているのは、カストロ暗殺計画のほか、黒人解放運動指導者のキング牧師を否定的に描いた連邦捜査局(FBI)の秘密分析が含まれていたということなど、ケネディ暗殺とは直接関係のない情報が大半だ。もっとも文書は膨大にあり、読解にはまだしばらく時間がかかるはずだから、もし重大な情報が出てくるとすれば、もう少し待つ必要があるだろう。

カストロの暗殺計画も、ケネディ暗殺とまるで無関係というわけではない。カストロとの関係は、ケネディ政権にとって宿命ともいうべきものであったことはたしかである。

ケネディは大統領就任まもない1961年3月、CIAによって支援された亡命キューバ人武装部隊をキューバに送り込み、カストロ政権転覆を試みたものの大惨敗に終わった(ピッグス湾事件)。
その後の度重なる暗殺計画もあり、カストロはケネディに怒りを抱くことになる。ピッグス湾事件での挫折はまた、ケネディとはもともと折り合いの悪かった副大統領のリンドン・B・ジョンソン(ケネディの後任の大統領)や、作戦失敗の責任を取る形で更迭されたCIAのダレス長官とのあいだに遺恨を残すことになった。

ケネディ暗殺からまもなくして、アメリカ政府により事件を検証するための「ウォーレン委員会」を設置され、翌64年には、テキサス教科書倉庫ビルに勤務していた元米海兵隊の一級射手リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論づけた報告書が提出されている。しかしこの報告書に対しては、その後出てきた目撃者の証言などとの矛盾も指摘される。他方で、前述したようなケネディと国内外の各人物・組織との関係から、ケネディ暗殺の原因を見出そうと、これまでにさまざまな陰謀説が唱えられてきた。

ケネディ暗殺について調べていると、これら陰謀説にどうしてもぶち当たる。
なかにはそれなりに根拠を持つものもあるとはいえ、あまり陰謀説にこだわりすぎると、肝心なことが見えなくなる恐れもある。暗殺事件についてまず知るなら、なるべく客観的、俯瞰的に事件をとらえ、しかもわかりやすく記述した書籍にあたるのがいいだろう。ビル・オライリー&マーティン・デュガード『ケネディ暗殺 50年目の真実 KILLING KENNEDY』(江口泰子訳、講談社)は、それにぴったりの一冊だ。

『ケネディ暗殺 50年目の真実』は、暗殺の原因について新説を提示するのではなく、現時点でわかっている事実を積み上げていくことで構成されている。そこでとりあげられるエピソードはいちいち興味深い。たとえば、最初のほうでは、ケネディが大学時代より抱えていた腰痛のため、毎日治療の一環としてホワイトハウスの温水プールに浸かっていたという事実が紹介されている。
一見するとさりげないエピソードではあるが、終盤の暗殺の場面まで読み進めると、ケネディの持病の腰痛が思わぬ伏線となっていて驚かされるはずだ。

映画「JFK」の主人公にも批判が


今回の文書公開をもたらした法律は1992年、当時のジョージ・ブッシュ(父)大統領により定められた。オリヴァー・ストーン監督の映画「JFK」が全米で公開されたのは、ちょうどその前年である。この映画では、CIAがケネディ暗殺に関与していたとする説が示された。これを契機に、米国民のあいだではあらためて事件の真相究明を求める声が高まり、ブッシュは25年以内に関連記録の公開を義務づける法律に署名したのである。

ただ、「JFK」の主人公である実在の検事ジム・ギャリソン(映画ではケヴィン・コスナーが演じた)に対しては、じつは証拠を捏造し、容疑者の一人を結果的に死に追いやったという批判も出ている。
これについては、元ニューヨーク・タイムズ記者のフィリップ・シノンが、存命するウォーレン委員会のスタッフを訪ね回ってまとめた『ケネディ暗殺 ウォーレン委員会50年目の証言』上下巻(村上和久訳、文藝春秋)にくわしい。

いずれにせよ、ケネディ暗殺に関するすべての重要書類や証拠写真は、ウォーレン委員会が最終的な報告書を提出した1964年から75年後の2039年に公開されることになっている。だが、もともとウォーレン委員会に提出された資料には不備があった、あるいは証拠書類の多くがすでに紛失しているか処分されてしまったとの噂もあり、真相究明には期待できないとの見方も強いようだ(『ケネディ暗殺 50年目の真実 KILLING KENNEDY』)。

それでも、公文書がある時期になればすべて公開されるとあらかじめ約束されているのは、重要なことだろう。日本でも2011年に「公文書管理法」が施行され、それまで各省庁でばらばらだった公文書の統一的な管理基準が規定された。とはいえ、福島第一原発事故で、原子力災害対策本部などが議事録を作成していなかったことが発覚したり、今年に入っても、学校法人森友学園への国有地売却の経緯に関する文書の廃棄、あるいは廃棄とされた南スーダンPKOの日報が見つかるなど、公文書管理をめぐる問題があいついでいる。果たして日本でケネディ暗殺のような事件があったとして、その真相を後世において検証できるような文書が残っているのかどうか……。海の向こうからもたらされる情報をチェックしていると、つい、そんなことを考えてしまう。
(近藤正高)