『究竟の地 岩崎鬼剣舞の一年』は、岩手県北上市の農村地域で1300年以上に渡って伝えられてきた民俗芸能「鬼剣舞(おにけんばい)」と、それを伝承していくことが生活の一部となっている人々の一年間を追いかけたドキュメンタリーだ。異形の者──鬼の面をつけ、笛や太鼓のリズムに合わせて勇壮に大地を踏みしめる。
「鬼剣舞」は、過去から未来へと続く鎮魂と祈りが込められた踊りなのだ。

タイトルにある「究竟(くっきょう)」とは、極めて優れていること。仏教用語として「物事の最後に行きつくところ。無上。終極」といった意味もある。現在、北上市では12ヶ所の地域に鬼剣舞を伝承する踊り組があり、そのなかでも岩崎地区の「岩崎鬼剣舞」がすべての源流だと言われている。『究竟の地』というタイトルは、そのことも意味しているのだろう。

映像は、実際に鬼剣舞を踊っている場面と、その練習風景、そして踊り終えた仲間たちによるたのしげな酒盛りが交互に展開されていく。
伝統芸能でもスポーツでも、本気で取り組んでいるものはみんな当たり前のように過酷な練習を積んでいる。鬼剣舞も例外ではない。若手がぬるい演舞をしてみせれば、ベテランの庭元(座長のような存在)から激しい罵倒が浴びせられる。でも、みんな好きでやっていることだから、誰も逃げ出したりしない。


散々踊り終えたあとの宴会の席でも、調子がのってくると「おれが、おれが」という感じでまた踊り出す。みんな本当に鬼剣舞が好きなんだなあ。こういうのは、見ているこちらまで幸せな気分になってくる。
庭元は酔いがまわってか、後輩の踊りについダメ出しをしてしまう。すると周囲からアンタが踊ってみせろと背中を押される。でも庭元さん「いやいやいや……」と遠慮する。内心は踊りたくて仕方ないんだよ。やがてシブシブ見本をやってみせるが、次第に本気になってきて「こうで、こうきて、こうなって、こう。どや!」って感じでご満悦だ。その様子がとてもカワイイ。

鬼剣舞の踊りは、鬼の姿を表現しなければいけないのだから、そこには力強さが必要だ。だけど、庭元はこうも言う。

「強ければいいってもんじゃない。50を過ぎて60歳になったら、味わいをもって踊れ」

この映画を撮った三宅流(みやけながる)監督は、伝統芸能のドキュメンタリーを得意としているが、絵作り以上に“音”へのこだわりに特徴がある。能面を彫る面打師の作業工程だけを克明に追った『面打/men-uchi』(2006年)では、一切の音楽とナレーションを排して、ひたすら面を彫る彫刻刀の音だけをBGMにした。これがとてつもない快感を生んでいた。

『究竟の地 岩崎鬼剣舞の一年』でも、その音へのこだわりは随所に活かされていて、観客の耳をおおいに刺激してくれる。とくにラスト、庭元の和田勇市さんが大勢の前で一人加護(白い面をつけたリーダーが単独で踊ってみせること)を披露する場面に、それは顕著だった。

笛と鐘と太鼓の音が北上の夜空を震わせ、地面を踏みしめる足音が北上の大地に鳴り響く。スクリーンから迫ってくる音の快感は恐ろしいほどに幻想的だ。劇場内が明るくなっても、パチパチと松明のはじける音がいつまでも耳に残っていた。
(とみさわ昭仁)
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