2017年の夏が終わった。

甲子園では大会新の6本塁打を放った中村奨成(広陵高校)というニュースターが誕生。
強打の右打ち高校生キャッチャーの出現に、ひとりの名選手のことを思い出した野球ファンも多いのではないだろうか。
ダイエーやシアトル・マリナーズで活躍した城島健司である。

王貞治に憧れていた城島少年


小説家・村上龍の出身地で知られる長崎県佐世保市で生まれた城島は、別府大学付属高校に入学した翌日、初めての公式戦で特大のサヨナラホームランをかっ飛ばすド派手なデビューを飾り、不動の4番キャッチャーとして高校通算70本塁打を放った。

94年ドラフトで、翌シーズンから王貞治が監督就任するダイエーホークスが駒沢大学進学を表明していた城島を強行1位指名。このドラフト会場を騒然とさせた指名について、ダイエーの故・根本陸夫氏は「ちょっと、イタズラしてやろうと思ったんだ」と言ったという。

自著『スーパーキャッチャー城島健司』によると、幼少の頃から背番号1のホームランビデオに夢中になり、中学3年時に佐世保球場での野球教室で王本人から「何も言うことはない。これでいい。このまま高校へ行って、卒業したらジャイアンツに来なさい」と誉められた城島少年は、一時は一本足打法に挑戦するほど“世界の王”に夢中になる(フォームを崩して泣く泣く元の打ち方に戻すというオチがつくが……)。

ちなみに書道4段の城島が高校の書道展に出品した作品は「王」の一文字だ。そんな死にたいくらいに憧れた王貞治から指名挨拶を受け、進学をとりやめダイエー入団を決意。この出来事をきっかけに翌年からプロ拒否選手はドラフト指名できなくなった。

“打ちすぎる”捕手に成長した城島


「す、すげぇ…」

プロ入りして秋山幸二の打撃練習の迫力に度肝を抜かれた城島は、1年目の95年は1軍で12試合出場のみ。2軍でもわずか1本塁打に終わったが、ここから異様なメンタルの強さを持つこの男の逆襲が始まる。

「チームには70人の選手がいる。
オレは今70番目でも、まず69番目の選手を追い抜こう。次は68人目。時間がかかってもいい、今はそうやって1人ずつ着実に追い抜いていくしかない」
と腹を括り、翌96年にはウエスタン新記録の25本塁打を放つ。

王監督は翌97年から若菜嘉晴をバッテリーコーチとして招き、ロッテから「動く見本」としてベテラン捕手の田村藤夫も獲得。チーム全体で城島を正捕手へ育てようとバックアップ体制を整えた3年目はオープン戦パ・リーグMVPを受賞。
ペナントでも120試合でリーグ5位の打率.308、15本、68点と申し分のない成績を残し、捕手として史上最年少でファン投票でオールスター出場も果たす。

城島と言えば、当時のエースだった工藤公康や武田一浩の部屋を訪ねて叱られながらレクチャーを受けるエピソードが有名だが、当初は「教えてください」と部屋のチャイムをならしてもドアを開けてくれすらしない。

そこで城島は彼らが他のチームメイトをご飯に誘っているとき、その場に立っていたり、さりげなく通り過ぎる行動を繰り返す。やがて根負けした先輩は「なにをしてるんだ?」と声をかけてくれるようになる。

次は誘ってくれるかな。そう思いながら、ひたすらその行動を繰り返す若者。まるで同じクラスの好きな女子に猛烈アピールする中学生男子のような貪欲さで、その懐に飛び込むことに成功した城島は猛スピードで先輩投手の話を吸収していくことになる。

ここまで来ると、野球選手にとって折れない性格もひとつの才能だと実感する。

そんな苦労が実り、99年には全試合出場でチームの初日本一に貢献。2001年には初の30本塁打をクリア。03年には捕手としてはのちにWBCでの配球を巡りバトルを繰り広げた野村克也以来となる全試合フルイニング出場、率.330、34本、119点という凄まじい成績でMVPにも輝いた。翌04年も36本塁打、ホームランテラスがある現在のヤフオクドームなら軽々40本をクリアしていただろう。
もはや“打てる”を通り越して、“打ちすぎる”捕手である。

2006年、日本人捕手として初めてメジャーへ


その年のアテネ五輪では「4番キャッチャー」のチームの柱として銅メダル獲得。名実ともに球界を代表するプレーヤーとなった城島は、06年日本人捕手として初めてMLBへ移籍する。

シアトル・マリナーズでは1年目から144試合に出場、率.291、18本、76点と打率と本塁打は1年目の松井秀喜を上回る好成績を残してみせた。09年には侍ジャパン正捕手としてWBC二連覇に貢献、10年には古巣ソフトバンクではなく、まさかの阪神で国内復帰を果たす。

メジャーから日本球界復帰直後は打撃不振に陥る選手が多い中で、1年目からフル出場して168安打を放ちセ・リーグ捕手歴代最多安打の大活躍。桁違いの打てる捕手の健在ぶりを見せつけたが、翌年からは膝、肘、腰と度重なる故障に泣かされ、36歳の若さで「キャッチャーで終わりたい」と惜しまれながら12年限りで現役引退した。


プロ生活18年、日米通算1837安打、292本塁打。どうしてもその打力が注目されがちだが、強肩ぶりも図抜けており、02年には盗塁阻止率.508(63企画32刺)を記録。99年から05年まで7年連続でゴールデングラブ賞にも輝いている。
2000年代前半から中盤にかけての城島は、もしかしたら攻守のバランスにおいてNPB史上最強のスーパーキャッチャーだったのかもしれない。

引退後は球界と距離を置き、幼少の頃に父親に教えてもらった趣味の釣りに没頭。佐世保市の観光名誉大使にも就任し、『城島健司のJ的な釣りテレビ』(RKB毎日放送)では、晴れ晴れとした表情で子どもたちに魚釣りを教え、自ら嬉しそうに包丁を握り魚をさばく姿が確認できる。
17年春のキャンプ前にはソフトバンクの臨時コーチ招聘が報じられるも実現せず。いつの日か、魚釣りだけでなく、野球を教える姿も見てみたいものである。
 


(参考文献)
『スーパーキャッチャー城島健司』(西松宏/学研)
『根本陸夫伝』(高橋安幸/集英社)
『日本プロ野球偉人伝 vol.13』(ベースボール・マガジン社)
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