NHK 大河ドラマ「おんな城主 直虎」(作:森下佳子/毎週日曜 総合テレビ午後8時 BSプレミアム 午後6時)
11月12日(日)放送 第45回「魔王のいけにえ」 演出:深川貴志
「おんな城主直虎」45話。主人公なのに「冷たい鬼ばばあ」と言われてしまう
NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」 音楽虎の巻 イチトラ SMJ

竜宮小僧は何を思う


家康(阿部サダヲ)と信長(市川海老蔵)との勢力争いに巻き込まれた瀬名(菜々緒)と信康 (平埜生成)母子がじわじわと外堀を埋められていく様が描かれ、爽快なところがひとつもなく、ただただ悲しかった。

瀬名と信康、ことごとくついてない。
家康を毒殺しようとした近藤武助(福山翔大)は信康の側近で、近藤一族だけでなく、団体責任として、岡崎の者全員が処断されることになった。

その書状を託された万千代(菅田将暉)の背後に、無数の紙がはらはらと舞い、なんともはかない人の運命を感じさせた。

信康は、そんな目にあっても前を向き、家臣を奮起させて、合戦で目覚ましい働きをする。
ところが、家康の側室に男子が生まれ(のちの秀忠)、焦った瀬名が、信康にも男子をと、側室をもらったことから、状況は悪化の一途をたどる。
側室が武田の元家臣の娘であったことが、信長につけいるすきを与えてしまったのだ。
ねちねちと家康を責めはじめる信長。なんといっても、使いで来た忠次(みのすけ)に精神的な圧を加えていくところ。後光眩しい大物感ある海老蔵と、小物感漂わせるみのすけの対比がすばらしい。
ついでに記せば、その後、阿部サダヲに「誰のせいでこうなった」と問われたみのすけが、食い気味で「わたくしでございます!」と返すタイミングも最高。
芝居はすてきなのだが、役としては、何かとやりきれないことをしているにもかかわらず、四天王として生き延びるのだから、もどかしい。

徳川の家を守るためには信康に死んでもらうしかないと、かつて兄を家のために死なせている於大の方(栗原小巻)が家康に進言する。

人の子の母とは思えないと言う家康と、人の子の母だから言っていると言う於大の方。
獣はお家のために我が子を殺めないが、人は、お家を守るためには、この生命さえ人柱として捧げないとならない。
「そなただけが逃れたいということは通らない」と於大の方は苦悶の表情をする。

いつも、正面で目をぎょろりと見開いているカットが多い阿部サダヲの顔が、ここだけ珍しく横向きで、なんとも言えない表情をしている。
一部始終を聞いている万千代(菅田将暉)の表情もつらそうだ。

そこに、おなじみの「竜宮小僧のうた」の旋律。
この曲は、1話からずっと、ここぞ、というところでかかる名曲だが、ただ泣かせたいがためにかかるのではなく、時の流れのなかで、ひとつひとつの重要な場面という珠をつないでいる糸のようだ。まさにこの曲が通奏低音。

この時代に生きた武家の人たちはみなそうだったように、お家のために、生と死や、正義や悪が、より分けられていくなかで、「竜宮小僧」という架空の、人間を超えた存在をドラマに据えたことで、物事の価値を正確にジャッジする基準ができているように思う。視聴者は、ちょっと引いた竜宮小僧の目線で、時代に翻弄される人々を見ることができるのだ。
でも、当事者ではないから、なにもできない。ただただ、俯瞰して見ることしかできないのが悲しい。
それが歴史。

ちょうど、この回、瀬名から、側室の件で、手紙をもらった直虎(柴咲コウ)が、「お家騒動のニオイがするところによっていってもろくなことにはならぬ」と引き気味になったとき、南渓和尚(小林薫)が、ひとのために働く竜宮小僧だったはずが、“冷たい鬼ばばあ”になったとからかう場面がある。

最終回まであと5回。直虎は、そして、直政は、その人生の答を見つけるのだろうか。

やっぱりくすぐり上手な森下佳子


「取り込めぬのならいっそ、と言うことか」(本多忠勝〈高嶋政宏〉)は、有名な「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」の言い換えだ。
どうやら、信長は、娘の夫・信康を取り込んで、家康を攻めようと考えていたが、それができそうにないので、「取り込めぬのならいっそ(信康を殺してしまえ)」という態度をとるわけだ。

武田とつながらないように娘の徳姫を嫁に出したにもかかわらず、信康が側室(武田の元家臣の娘)をもらうという報告を聞いて、何かを思うところあって、銃を撃ったら、さっきまで愛でていた小鳥の羽がはらはらと落ちる。もしや撃っちゃった? と不安にさせるシーンもあった。

一方、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」は家康。彼は、爪を噛むくせがあったと言われていて、前作の大河ドラマ「真田丸」では爪をかんでいた。今回も、前回の予告で阿部サダヲが爪を噛んでいるのかと思っていたら、今後のことを考えながら、白い碁石を噛んでいた。

誰もが知っている歴史上の人物の特性を、ストレートに描かず、ちょっとひねって見せる。書いているほうもこういうことは楽しいのではないだろうか。

瀬名が直虎に手紙を書いてきたときの、署名が“世那”で、その前に、29話で、しの(貫地谷しほり)が虎松のために植えた梛の木を直虎が見て「大きうなって」としみじみしている。
世那の“那”と、梛の左側は“那”で同じなのは偶然だろうか。那には「美しい」とか「安らか」という意味があるそうだ。

そんな瀬名と、15年ぶりくらいに再会したおとわ(直虎)が、ぼんやり殿(家康のこと)とぼんやりを堪能すると楽しそうにおしゃべりしていたら、ぼんやり殿は、ビー玉のような目をして、信康を捕まえ、奥は乱心したと言う。

だが家康は、常慶(和田正人)に氏真(尾上松也)に助けを求める密書を託し、それを受け取り立ち上がる氏真は頼もしく、45話、唯一の救いだった。
でも、歴史は変えられない。それが大河ドラマである。これもひとつの不可逆というのだろうか。

46話「悪女について」、見るのがつらい。
(木俣冬)
編集部おすすめ