長与千種さんの快挙は「喧嘩の仲裁」ではなく「DVからの救出」だ!

プロレスラーとして一世を風靡した長与千種さんが、2018年11月19日札幌市内で、夫から暴行を受けていた妻を救出し、大いなる称賛を受けています。

興行で札幌市内を訪れていた長与氏は、食事を済ませてホテルに戻る途中、前を通りかかった立体駐車場から「助けて!」という女性の声を聞き、駆け付けたところ、若い男性が女性に暴行を加えていたとのこと。


結果的に小指の剥離骨折という傷を負いながらも、53歳の女性(長与氏)が27歳の男性(加害者である長谷川容疑者)に立ち向かうという勇猛果敢さは本当に素晴らしく、称賛に値することは間違いありません。


日本では人を助けることのハードルが高い


私も、2017年6月に東京世田谷区・下北沢駅の構内で、盗撮をしていた男性を注意したところ、逆上して顎を殴られ首を絞められる暴行を受けたことがあります。体重は私の2倍はありそうな男性でしたし、「犯罪を実行している」という時点で既に反社会的な人間ゆえに逆上の可能性も高い。そのような中で立ち向かうことは非常に勇気の要ることです。

とりわけ、応援がわっと入ってくるような他国とは違って、日本では周囲が傍観を決め込むことが大半で、孤独の戦いを強いられます。それゆえ、日ごろから強い正義感を持っていない限り、とっさに行動できることではありません。

まさに偉業とも言うべき長与氏の救出劇ですが、一方で、このニュースを見ると、長与氏を称賛したい気持ち以上に、むしろ怒りが増すポイントがいくつかあります。


延々と誤報を繰り返すマスコミ各社


まず、「男が女性に乗っかっていて、足と首を取っているような状態だった。女性は引きずり回され、素足で、膝には擦過傷があって、バッグなども散らばっていた」という状態は決して喧嘩ではなく、妻に対する激しいDVであり、それ自体も卑劣な暴行・傷害です。ですから、長与氏の偉業は、あくまで「DVを受ける被害者を救出したこと」です。

それにもかかわらず、マスコミ各社は「喧嘩を仲裁した」と事実関係を誤った表現で報じています。喧嘩というのはあくまで「取っ組み合い」「殴り合い」「罵り合い」のような状況を指すのであって、今回のように強者が一方的に暴力を振るう状況や、片方が「助けて!」と叫ぶ状況はもはや喧嘩とは言いません。

DVは、その大半が一方的な暴行であるにもかかわらず、これまで散々「夫婦喧嘩」と見なされ、矮小化されてきました。平成になってからようやく対策がなされるようになり、2001年のDV防止法施行以降は社会的認知も少しずつ高まってきたものの、むしろ警察における配偶者からの暴力事案等の相談等件数は右肩上がりという状況が続いています。


このように、DVは喫緊の社会課題であるにもかかわらず、いまだにマスコミ各社が「夫婦喧嘩」という加害者の暴力性を矮小化する言葉で報じてしまうことは、決して許されることではないし、こういう無理解がDVを根絶できない社会の片棒を担いでいるように思うのです。


DVに対する無理解に唖然とする


では、今回の事件を最初に「喧嘩の仲裁」と表現したのはいったい誰なのでしょうか? マスコミ各社にニュースを配信する通信社の担当者が間違ったために、そのニュースを採用するマスコミ各社も間違ったという事例はいくつか目にしたことがあります。今回もその節を疑って、通信社の情報をそのまま載せている配信記事を見たところ、唖然としてしまいました。

「署によると、長与さんは妻とけんかになっていた長谷川容疑者を止めようとしたという」(共同通信)

あろうことか最初に事実を誤認したのは警察だったのです。DVに対応するべき警察の中にですらいまだにDVを夫婦喧嘩と見なす人がいるわけですから、DVが無くならないわけです。日本ではいまだに法治国家が確立できておらず、その要因の一つに法治国家や「保護法益」に対する警察の無理解もあるという指摘はこれまでもしてきましたが、改めてその一端を見たように思います。


反撃しないことを「プロ」と称賛すべきではない


次に、長与さんが「プロだ!」と称賛されていることにも、激しいモヤモヤを覚えます。確かに勇猛果敢に立ち向かったことを称賛するのはその通りであり、そこに疑いの余地はありません。

ですが、彼女が小指の骨折を負っても反撃しなかったのは決して「プロ」ではありません。もちろん、反撃をしないのは長与さんの哲学であり、そこを否定するつもりはないですが、この場合正当防衛を行っても何ら問題も無いと思います。長年のライバルだったダンプ松本氏はTV番組で「(自分だったら)バックドロップをかます」とコメントしていますが、それでも勇猛果敢に立ち向かった時点で既に称賛すべきでしょう。

結局のところ、ここには「自己を犠牲にして理不尽な我慢に耐えること=プロ」という誤ったプロフェッショナル観があります。野球大会開会式で中学生から“襲撃”を受けたのに受け流した稲村亜美さんがプロと称賛され、ストーカー被害を受けたけれど仕事を休まなかった菊池桃子さんがプロと称賛されるというニュースが2018年にはありましたが、それらと同様、今回も日本社会の歪んだ自己犠牲賛美が如実に表れていると思います。

そもそも犯罪者に立ち向かうのはあくまで警察の役目です。
警察が勇猛果敢に立ち向かったのであれば「プロだ!」と称えても当然だと思うのですが、プロレスラーは決して犯人を捕まえるのが仕事ではありません。プロとは「適切な対価を得て自分の仕事で高いパフォーマンスを出すこと」で、警察ではない職業の人による犯人逮捕を「プロだ!」と称賛するのは間違いです。


もっと気軽に困った人を助けられる社会を目指して


このように、長与氏の行動は本当に「カッコ良い」という感想以外の何者でもないですが、その反応を見ていると実にゲンナリすることも多く、自己犠牲賛美等で「被害者を助けることのハードルが高い」状況を自ら作り出している社会では、「第二の長与」がなかなか出て来にくいのも当然ではなかろうかと思うのです。

そして一般市民による抑止が働かないため、被害者が泣き寝入りをせざるを得なくなり、体感治安が悪くなっているという話は、2017年に善良な市民たちが「共謀罪」に賛成する現象を説明する際にも指摘しました。このようにして、人々が「火中の栗は拾わず利己的な行動を取ったほうが良い」と考えて、ますます被害者が放置されるという悪循環も起きてしまっていると思います。

もっと気軽にかつ当たり前に困った人を助けることができる社会を目指して、警察も、マスコミも、世論ももっと「人権意識」と「法治や犯罪に対する正しい知識」を持ってもらいたいと思います。
(勝部元気)
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