【第四回はこちら】センター抜擢の直後に緊急事態宣言…HKT48の運上弘菜が語る「やっとステージに立てました」
【写真】チャンスをつかんだ田島芽瑠
HKT48に限らず、コロナ禍により活動が大幅に制限されてしまったアイドルグループは多い。いや、多いというか、ほぼすべてがそうなのである。
この連載でもお伝えしてきたようにHKT48では、新しい形での配信ライブとして歌に特化した『HKT48 THE LIVE』をスタートさせ、それに付随してボイストレーニングを強化するなど、表に出る部分でも、表には出ない部分でも、活動に制限がかかってしまった期間をも、今後の糧にすべく動いてきた。
そんな中で2期生の田島芽瑠は、さらに大きな一歩を「外」に踏み出そうとしていた。
自分から積極的に動いて、外部でのソロ仕事を展開してきたのだ。
「お芝居に挑戦したかったんですけど、こんな状況なので舞台の公演もなかなかないですし、そうなるとオーディションすらないんですよ。でも、ただチャンスを待っているだけっていうのも嫌なので、なにかできることはないかなって自分で探すようにしました。それとSTAY HOME期間からSNSを見てくださる方がすごく増えたので、自分からアピールもしていきました」
そう語る田島芽瑠は史上初の「Zoom演劇」として話題を呼んだ劇団ノーミーツの旗揚げ公演に出演して話題を集めた。これは劇団の存在を知った彼女が、みずからオーディションを受けたい、とHKT48の運営サイドにアピールし、見事、オーディションを勝ち抜いて手に入れた役柄。その後もオンラインショートドラマ『年下日記online』の主演に抜擢されるなど、順調に活躍の場を広げている。
「まさに『年下日記online』は監督さんの作品についてSNSに書いたものを、監督さんが目にしてくださったことがきっかけとなって話が決まったんですよ! こういう貴重な経験を重ねていって、いつかは舞台にも立ちたいな、と思っています」
こんな時代だからこそ誕生したオンラインによる演劇やムービー配信という、新しいエンターテインメントの形。一過性のものなのか、これからひとつのジャンルとして確立していくのかは、まだ誰にもわからないが、間違いなく田島芽瑠はこの世界における「先駆者」の1人となった。
いままでだったら難しかったかもしれない。
オーディションを受けるにも東京に行かねばならないし、稽古や公演の期間も東京でスケジュールをキープされてしまうので、本拠地である博多との距離がネックとなってきたが、すべてがオンラインで完結するので距離や時間はまったく問題ではなくなった。
「そうなんですよね。劇団ノーミーツさんの『門外不出モラトリアム』に出演させていただいたときも、自分の部屋からの参加でしたから(観客はZoomの画面上で展開する演者たちの物語を視聴する)。あのときは照明とかも自分で調整するので、本当に普通の舞台では経験できないようなことまで味わえました。
そういう活動を続けていくうちに後輩たちからも、相談を受けることが増えました。『チャンスをつかむにはどうしたらいいですか?』とか『SNSを上手に活用するにはどうすればいいですか?』みたいな相談をよく受けます。『芽瑠さんががんばっているので、私も負けていられないです』と言われたときには、あぁ、いい意味でグループに刺激を与えることができているのかなって。
もちろん、きっかけは自分で動いたことかもしれないですけど、自分の力で仕事を掴みとってきたわけではないんです。スタッフのみなさんや支えてくださってくださる方々がいてこそ、いろんなことができているわけで、そこは本当にもう感謝しかないです。
個人としての活動ではあるが、必ず肩書きには「HKT48」がつくし、ニュースになるときにも「HKT48の人気メンバーである田島芽瑠が……」という書き出しではじまるので、彼女が活躍することで、いろいろな場所で「HKT48」の文字が躍ることになる。田島芽瑠はそうなることで「新しいファンの方が興味を持ってくれる“入口”になれれば」と語るが、その一方で「まだまだHKT48の活動が本格化していないので、私が外の仕事で経験してきたことを、まだHKT48という場で活かすことができないでいる。それがちょっと歯がゆいですよね。ファンの方にも会いたいけど会えない、という状況がずーっと続いているし……」と唇を噛んだ。
すべては、HKT48のために。
これは連載の序盤でお伝えしてきた1期生の「グループのためなら損得抜きで動く」に相通ずるものがある。
ちなみに2期生はこの9月23日で加入から8周年を迎えた。
実は1期生とのキャリアの差は1年もない。CDデビューする際も、当時、まだ研究生だった田島芽瑠がセンターに大抜擢されているので、外から見ている分には余計に差を感じないのだが、本人たちにしてみれば、1期生とはとてつもなく大きな差があるのだ、という。
それは1期生がグループの立ち上げに、そして専用劇場のオープンに関わってきているから。ほかのことに関してはのちに追体験できるが、こればっかりはどうにも味わうことができない……と2期生は思っていた。
しかし、もうすぐ新劇場がオープンする。
当たり前のことだが、今回は2期生も立ち上げから関わることができるのだ。
「それって、すごいことじゃないですか? 劇団ノーミーツさんの旗揚げ公演に参加させていただいたことで、歴史の最初に立ち会える喜びと重みを知ったばかりなので、とてもうれしいです! しかも、前の専用劇場があった場所に近いじゃないですか? このあいだ、劇場名お披露目のステージに家から向かうとき『あぁ、この道のり、懐かしい!』って気持ちになりました。実際に足を踏み入れた瞬間も『帰ってきた!』ってなりました。広くて、新しくて、いいなぁ~って」
昔からそこにあった実家がリフォームされたような感覚。きっと、これは過去の劇場を知っているファンも、足を運んだら同じような気持ちになるのかもしれない。だが、あのときと比べると先輩や同期の数は減ってしまった。その代わり「妹」たちがものすごく増えた。その中には専用劇場を知らない世代も相当数、いる。そういうメンバーたちに「専用劇場とは?」「劇場公演とは?」といったことを伝えていくことも2期生にとって大きな役割になってくる。かつて1期生から教えてもらったように。
「そこはもう自分の道をしっかり歩みつつ、後輩たちを支えていきたいですね。2期生もいつのまにかHKT48には6人だけになっちゃいましたけど、ここまで残ってきているだけあって、本当に個々がしっかりしているんですよね。
この状況とか関係なく、以前から『これからHKT48はどうなっていくんだろうね?』って日々、グループLINEとかで話してはきましたけど、ふと『いつかは1期生も2期生もみんないなくなるんだよなぁ~』って考えたときに、そうなったら誰がまとめ役になるんだろう? みたいなことが頭に浮かんできて……あぁ、さしこちゃん(指原莉乃)がなかなか卒業を決断できなかったのも、こういう感覚だったのかなって、少しだけわかったような気がします」
指原莉乃は昨年4月(つまり平成のラスト)に卒業した。
もし、その決断が1年遅れていたら、コロナ禍で卒業コンサートもできなかっただろうし、HKT48も非常に不安定なままでの活動を余儀なくされていたはずだ。この1年間で運上弘菜という新しいセンターも誕生し、新しい時代に向けての体制が整ってきた。だからこそコロナショックでも踏ん張れた、という側面は間違いなくある。すべては偶然なのかもしれないが、結果として平成のうちに指原莉乃がHKT48を離れたことがグループにとって大きなプラスとなっているのだ。
いきなりセンターとしてデビューした田島芽瑠は、その後、屈辱の選抜落ちまで味わっている。こんな激動の経験をしているメンバーは姉妹グループを見渡しても、まずいないし本人も「私のアイドル人生、ジェットコースターですよ」と笑う。
ただ、普通の感覚だったら、とっくにジェットコースターから降りてしまっているはずなのに、田島芽瑠はそのまま乗り続け、選抜復帰を経て、独自のポジションを築き上げることに成功した。
「自分のことを信じ続けてよかったなと思うし、そういう経験をしていく中で『どんな時間でも無駄にしなくない』って精神が生まれたので、それが今、役立っているのかもしれないですね。さっき、後輩メンバーの話をしましたけど、きっと30歳になっても、40歳になっても、私、ずっと頑張っているんじゃないかなって自分でも思います。
たくさんの方から『今、仕事ができなくなってしまって投げやりになっていましたけど、芽瑠ちゃんの頑張りを見て、自分でできることを見つけて頑張ろうと思いました』っていうコメントをいただいたんですね。自分が頑張ることで、いろいろな人たちにエールが贈れるような存在になれたらいいなって」
コロナ禍で得た「気づき」。
田島芽瑠のジェットコースターのようなアイドル人生は、たくさんの人たちの想いを乗せて、まだまだ続く。
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