「母は’24年の年末から体調が思わしくなく、入退院を繰り返していました。そんななか、翌年の’25年2月18日、19日に2日にわたる僕のバースデーコンサートがあったんです。

その初日の前夜、虫の知らせか『オフクロに何かあってもコンサートが終わるまで知らせないで』と妻に言ったんです。

もともと僕と母親との間には、“この仕事をしていたら、最期は会えないこともあるよね”という暗黙の了解がありました」

そして18日、コンサートの開演約2時間前に野口五郎さんの最愛の母、伊代子さんは98歳の大往生で永眠した。

家族は2日間、コンサート終演まで伊代子さんが旅立ったことを野口さんには黙っていてくれたという。

「僕の69歳の誕生日(2月23日)が母の納棺の儀になり、その日、2人きりで、『こんなに長い時間を過ごすことなかったね』と、母に話しかけていました。古希のいま、『僕は大のマザコンだよ』と、宣言できます」

■母と2人で始まった東京での生活

歌手を目指していた両親のもとで育った野口さんは歌手デビューのため13歳で母と2人で上京。

「親戚の印刷工場の4畳半に下宿をして、母は荷物運びや、工員さんの食事の世話や洗濯。夜は内職もして、ずっと働いてました。カレンダーに、母が赤丸をつけた日があったんですが、それは、岐阜から父がお金を持ってきてくれる週末で、僕も楽しみでした」

だが上京直後に変声期に入り声が出なくなる。デビューが遠のき、野口さんは挫折を味わった。

「美容院を営んでいた母は、店を人に譲り2年の約束で僕と一緒に東京に来てくれたのに……夢が閉ざされたようでした」

岐阜に帰る父を追いかけて、「田舎に帰りたい」と打ち明けたいが、それもできなかったという。

「父は戦争にも行っていますが、昭和初期世代の人は強い。自分たちの大切な子の“夢のために”夫婦で決心して黙々と働き忍耐してくれて。

厳しいけれど深い人間力がすごいなと、いまも思います」

その後’71年に、野口さんは演歌歌手としてデビュー。2曲目『青いリンゴ』からポップスに転向し、新御三家の1人として国民的アイドルに上りつめた。多忙な日々を送っていた10代のある朝のこと。

「僕が急いで朝ご飯を食べていると、母が、自分のお茶わんやみそ汁を持ってきて隣に座り一緒に食べようとしたときです。『なんだよ、後で別に食べればいいじゃん』って言っちゃったの。母は寂しそうに台所に戻っていった。このことが僕は一生の後悔なんです」

■結婚を誰よりも喜んでくれたのも母

歌手・タレント・俳優として活躍し、長く独身だった野口さん。’01年44歳のときに三井ゆりさん(57)と結婚し家庭を持った。誰より喜んだのも伊代子さんだった。

「うちは兄と僕の男兄弟だったから、母は娘ができたのがうれしかったのか、妻を気に入って、よく一緒に出かけていました。自分のものをなんでも妻にあげるの。あんなにうれしそうな母を見たことなかった(笑)

つい先日も、妻が見覚えのないネックレスをしていたので聞くと、『ずいぶん前に、お母さんが、自分の宝石をリフォームしてくれた』って。

そのくらい仲よしでした」

伊代子さんは同居する孫の文音さん(23)、侑都さん(21)のこともかわいがっていた。

「’11年の東日本大震災のとき、僕は都内のスタジオにいて、数時間かけて何とか家にたどりついたんです。すると、家では母が小さな体で2人の孫を両脇に抱きかかえて、一生懸命に守ってくれていました。その姿を見て、やっぱり昭和の母は強いなと思いました」

■母に現れた異変症状の改善を願って

このころ、伊代子さんには認知症の初期症状が現れていたという。

「すごく掃除が丁寧できれい好きな母が、自室でビニール製のプチプチをつぶし続けるようになったり、新聞の広告の紙をハサミで細かく切り刻むようになって。医師に相談をして、当時は、認可された認知症薬はなかったんですが、改善薬を試してみたんです。すると母の体が震え始めて……。副作用が強くて母には効かなかった。

その姿を見て『お母ちゃん、ごめん』と、薬の服用は一切やめました。症状が進んでいく母に、妻が本当によく向き合って、面倒をみてくれました」

90歳近くになり、施設へ入所したときには、息子の野口さんのことも、わからなくなっていた。

「家族でよく、母に会いにいきました。一緒に過ごして、『楽しかったね』『うん。

あのね、ところであんた誰?』と、言われたときは、すごくつらかったですね」

じつは野口さんは研究者としての顔も併せ持つ。10年以上前から、人には聞こえない深層振動(DMV、20ヘルツ以下の低周波音)について、大学教授らとともに研究を行っている。野口さんは、このリラックス効果や脳の活性化が期待されるという深層振動を自身のコンサートでも流しているという。

「僕のコンサートを鑑賞した母が、終演後に楽屋に来て、『やっちゃん、やっちゃん、どこいくの~?』と、本名(佐藤靖)を呼んで両腕を伸ばしてくれたんです。え? 僕のことわかったの!?と、びっくりするのと同時にうれしかったです」

その後、伊代子さんのいる施設に深層振動のスピーカーを置かせてもらったという野口さん。

「母の脳が活性化したのか、いろいろと思い出してくれたんです。施設の方も、明らかに母が変わったと言っていました」

伊代子さんは最期まで、野口さんや家族のことを認識してくれていたという。

「施設に行くと、子ども時代に、父母と歌った『支那の夜』を母と一緒に歌ったりできました。子どもたちと行くと、娘の肩を抱いたりハグしたりするのに、僕には、わざと『あんた誰?』みたいなツンデレになるんです~。オフクロかわいいでしょ?」

母との別れから1年。‘26年に古希になり歌手デビュー56周年を迎えた野口さん。音楽大学を卒業しピアニストとして活動中の娘、文音さんの演奏で歌うこともある。

「70歳のいま、声の調子がすごくいいんです。ピアノを弾く娘もそれを実感してくれていて。僕の曽祖父は人形浄瑠璃の太夫で、父母も歌手。僕が、父母と話していたようなことを、いまは、子どもたちに伝えていて、世代を超えて思いも受け継がれています」

最後に、自身の座右の銘を教えてくれた。「積極的・楽観的・希望的」でいること。親の介護に悩む人に参考にしてほしいと話す。

「この順番が大事。まず一歩前に出ようと積極的になること。そして楽観的に。そして希望的。だってこの反対は、消極的・悲観的・絶望的になってしまう。いま、どんな状況に置かれていても、3つの言葉を魔法のように唱えて乗り越えてほしい。

きっとその先にいけますよ。古希のマザコンの僕を信じてほしいな(笑)」

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