天皇と皇族を除き、日本国民は名字を持っている。この「名字」というシステムは一体どのように広がっていったのか。
静岡大学名誉教授・小和田哲男さん監修の『家紋で読み解く戦国時代』(宝島社)より、一部を紹介する――。
■名字のある武士=領地を持つ武士
武士の間で名字が広まるのは、平安時代になってからである。平安時代初期から中期にかけて、中級・下級貴族や官人出身の官位が低い軍事貴族が都を離れ、武力をもとに土地を支配するようになる。
例えば、下野国の在庁官人だった藤原秀郷、上総国に下向した平良文からは、のちに有力な武家が派生している。このような武士の領地のことを「名」と呼ぶが、名の呼称は地名がもとになっている。
やがて領主はもともとの氏姓を用いず、「名」の呼称を名乗るようになっていく。現在、姓のことを「名字」と呼ぶのは、これが由来とされ、このような名字は各地に広まった。一方で、すべての武士が領地を持っていたわけではなかったので、「名」を持たない下級武士、武士の家来たちは、名字を名乗ることができず、「太郎」や「五郎」など、下の名前だけで呼ばれていた。
つまり、この頃、名字を名乗っている武士は、それだけで領地を持っている者だと判別できた。名字の有無が領地の有無を表しており、武家社会では名字はステータスとなっていったのである。
■源平合戦は「紅白」の戦いだった
家紋の成り立ちは、名字の普及とはまったく別の起源を持っている。家紋は貴族の間で広まるが、武士が持つようになったのは、源平合戦の頃である。
源平合戦では、敵と味方を区別するために、源氏は白旗、平氏は赤旗を掲げた。
当初は旗下の者の区別はなかったが、源頼朝が自らと下級武士が同じ旗を掲げることを良しとせず、旗にそれぞれの紋を付けさせた。合戦場で遠くから見てもわかりやすく、シンプルで力強さを感じさせる図柄が好まれ、貴族の優美な家紋とは趣(おもむき)を異(こと)にしている。
■鎌倉幕府の権威を高めた名字システム
武士の領地「名(みょう)」が「名字」になったと前述したが、公的に名字として認められるのは、鎌倉幕府が成立してからである。
源平合戦で平家が滅亡すると、全国に広がる平家の領地は勝者となった源頼朝に与えられた。源頼朝は鎌倉幕府を開くと、在地領主と改めて主従関係を結んで彼らを「御家人」とし、平家から没収した領地を支配・管理する地頭に任じた。自分に仕える上級武士を「御家人」として認め、ほかの武士と区別することで国の秩序を保とうとしたのである。
こうして御家人となった地方領主は、幕府への奉公を果たす証として、土地の名を名字とした。武士が名字を名乗れば御家人だと明確に判別でき、それが特権意識につながり、幕府の権威を高めたのである。
■下級武士や農民も名字を持てるように
鎌倉幕府成立後、頼朝は自らが認めた者だけに名字を与えていたが、幕府が衰退するに従って、地方の武士団が力を持ち、勝手に名字を名乗るようになっていった。名字を与えることによって御家人とそれ以外を区別し、秩序を保とうとした幕府の思惑は外れ、下級武士の間にも名字が広まったのである。
さらに幕府の権威が弱小化すると、下級武士だけでなく、農民までもが名字を持つようになり、人々の名字に対する特権意識は薄まっていった。

また、当初は領地の地名を意味していた名字も、移住する者が増えるに従って、「土地=名字」という関係も薄れていった。このように、名字を名乗るだけで階級や領地の場所がわかるという時代が終わり、名字は単なる記号となったのである。
■源一族から鎌倉幕府を倒す分家が生まれる
鎌倉幕府の衰退の要因の一つに、分家が増えたことが挙げられる。合戦で功績を挙げた武士は、褒賞として地方の領地を授けられたが、移り住んだ先で子孫に領地を分割相続して、分家を出していった。
鎌倉武士団は、一族の長(惣領(そうりょう))が中心となり、兄弟や親族を統率する惣領制が一般的だった。しかし、一族の統率は惣領家(宗家(そうけ))の長男が担っても、土地は兄弟が分割して相続するため、所領が細分化。惣領家の力が弱まることにつながり、ときに分家との対立を招くことになった。
このような弱点を克服するため、時代が進むにつれ、長子単独相続に移行。南北朝期になると、一族の連帯から、単独の家を継ぐ「家督(かとく)」という考えが主流となっていく。
分家が一族の名字ではなく、地名をもとにした新たな名字を名乗るケースは平安時代から見られた。例えば、河内源氏の棟梁(とうりょう)・源義家からは、源頼朝につながる本家、のちに鎌倉幕府を滅亡に導く足利家や新田家という分家が派生している。
■「権威の象徴」は名字から家紋へ
武家社会では、家紋は合戦の際に敵味方を見分けるもので、名字ほど重視されてはいなかった。
しかし、殿中に上がる際の礼装には紋を付ける習慣がある。南北朝・室町時代にかけて、儀礼上、武家社会の間でも家紋は不可欠となっていく。
室町幕府を開いた足利尊氏の桐紋は、後醍醐天皇から下賜(かし)されたもので、武家政権が天皇の家紋を使用した最初の例となった。こうして家紋は、名字を代替する権威の象徴としての役割を持つようになっていく。
名門一族出身の者が多い守護大名に対し、下剋上でのし上がった戦国大名は、権威を求めて、出自(本姓(ほんせい))や家紋をつくり出そうとした。名字に対して、本姓とは、中世に天皇から与えられた氏のことだ。
武士の本姓の代表が「源・平・藤・橘」、つまり「源氏」「平氏」「藤原氏」「橘氏」である。戦国武将たちの多くは、源氏や平氏、藤原氏、橘氏を本姓と自称し、家系図までつくり上げた。
■信長が「平氏」を自称した理由
織田信長は、藤原氏の子孫と考えられているが、途中で平氏の末裔(まつえい)を自称した。これは平氏から源氏へと政権が順番にめぐるという思想から、足利将軍の本姓が源氏であることから、天下統一には平氏のほうが都合が良かったからだと考えられている。
ちなみに、歴史ドラマなどでは戦国武将を「(織田)信長殿」などと、諱(いみな)(実名)で呼ぶことが多いが、これはドラマをわかりやすくするためで、当時は実名で呼びかけるのは無礼な行為だった。目上に対しては官位を付けて「織田上総介(かずさのすけ)殿」、同列や配下なら仮名(けみょう)の「(織田)三郎」などと呼ぶのが一般的だ。

■秀吉は「羽柴」や「豊臣」をばらまいた
「源・平・藤・橘」の代表的な家紋が、源氏が「竜胆(りんどう)紋」、平氏が「揚羽蝶(あげはちょう)紋」、藤原氏が「藤紋」、橘氏が「橘紋」であり、その末裔はこれらの家紋をアレンジして使用しているケースも多い。例えば、村上源氏から分家した久我家、中院家、そこから派生した六条家、岩倉家、赤松家などは、竜胆紋を用いている。
有力武将は、家紋や名字を外交手段として利用した。農民出身の豊臣秀吉は、「木下」の名字を名乗っていたが、出世すると、丹羽長秀から「羽」の字、柴田勝家から「柴」の字を与えられ、「羽柴」となる。その後、朝廷から「豊臣」の本姓を与えられた。
本来、藤原五摂家しか許されない関白の地位に就き、絶大な権力を手にした秀吉は、地方の大名に「羽柴」の名字や「豊臣」の本姓、独自にアレンジした桐紋(太閤桐)を与え、反発を防いだのである。名字や家紋を与えるということは、戦うことなく相手を自分の一門に引き入れるということであり、戦乱の世の中で、すぐれた外交手段の一つとして利用されたのである。

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小和田 哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

1944年、静岡市生まれ。日本中世史専攻、特に戦国時代史。NHK大河ドラマでも数多くの時代考証を担当。主な著書に『集中講義織田信長』(新潮文庫)、『秀吉の天下統一戦争』『北政所と淀殿 豊臣家を守ろうとした妻たち』(ともに吉川弘文館)、『詳細図説 信長記』『詳細図説 秀吉記』『詳細図説 家康記』(すべて新人物往来社)、『黒田官兵衛 智謀の戦国軍師』(平凡社新書)、『家訓で読む戦国 組織論から人生哲学まで』(NHK出版新書)、『豊臣秀長 秀吉と泰平の世をめざした、もう一人の天下人』(早稲田新書)など多数。ほかに、単行本未収録「小和田哲男著作集」全7巻(清文堂出版)がある。


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(静岡大学名誉教授 小和田 哲男)
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