昨年6月3日に89歳で永眠したミスタープロ野球長嶋茂雄さん。しかし今もなお、その鮮烈な記憶は人々の心で生き続けている。

スポーツ報知では、代名詞の背番号3にちなんで、毎月3日に「ミスターの世界」と題した特集を組み、さまざまな角度からその偉大な足跡に迫る。第3回は、学生時代や卒業後の対談資料から「立大生・長嶋茂雄」をひもとき、関係者の証言から母校に対して抱いていた思いにも迫った。(取材・構成=小島 和之)

 持ち前の天真らんまんさで多くの人に愛された長嶋さん。それは学生時代から同じだったようだ。48歳だった1984年に行われた公開対談では印象に残った授業を「英語とドイツ語」とし、特に教師との交流が一番の楽しみだったと説明。さらにこう語り、会場を沸かせた。

 「先生の家へよく遊びに行き酒を飲んだり、食事をしたりしていたんです。ただ、皆さん、信用していただきたいのは、ドイツ語と英語は、私はトップの優をもらいました」

 事実か、はたまたジョークだったのか…。見る者を楽しませる天才だった長嶋さんらしいエピソードだ。有名な“和製イングリッシュ”誕生には、教師との交流も影響していたのかもしれない。

 私生活ではどんな学生だったのか。「立教大学新聞」には、「体は大きいが、なかなかのテレ屋」とあり、当時“いい男”とされた寡黙で武骨な男性像に当てはまる。

しかし、ひとたびグラウンドに立てば違った。57年には「立教の応援団は女学生が多い」との質問にこう答えている。

 「あんまり気にならない。かえってファイトが出ます(笑)。変な意味じゃなくて、本当に。それは大きいですね(大笑)」

 大舞台で底力を発揮した長嶋さんらしく、ユニホームを着れば注目を集めることは喜びだったようだ。

 母校に対してはどんな思いを抱いていたのか。校友会報「セントポール」には、「愛校精神というものは非常に強く持っていました」とある。2017年の全日本大学選手権では、51年ぶりの出場で決勝進出した母校をサプライズ観戦。59年ぶりの大学日本一を見届けた。

 当時OB会長を務めていたのは元巨人・横山忠夫氏(76)。長嶋さんの引退セレモニーが行われた74年10月14日の中日戦(後楽園)で最後のマウンドに立ち、長嶋政権1年目の75年には8勝を挙げた右腕の元に、関係者から連絡があったのは当日の朝。

当時を苦笑いで回想する。

 「布団の中にいた7時半くらいに、『監督が神宮に行きたいと言っている』と。大慌てでしたよ」

 神宮では貴賓室で並んで観戦。7回のエール交換で校歌が流れると長嶋さんに、思い切って問いかけた。

 「失礼かなとは思ったけれど、『校歌を覚えていらっしゃいますか?』と尋ねたら、『覚えているよ!』と。僕より大きな声で歌っていて、2人で歌えたことは一生の思い出です」

 立大OBで、全日本大学野球連盟の内藤雅之事務局長(64)も当時を知る一人。初回に左翼へ3ランが飛び出すと、「プロ野球選手みたいな打球だ!」と喜ぶ姿が印象に残る。長嶋さんは04年3月に脳梗塞(こうそく)で倒れて右半身に麻痺(まひ)があったが、関係者の助けを借りて3階の貴賓室まで階段を上った。

 「普通の建物なら4階以上の高さ。それでも行こうという姿に、不屈の闘志を感じました」

 立大池袋キャンパスには「鈴懸(すずかけ)の径」という並木道がある。長嶋さんが愛した歌手で、立大の先輩・灰田勝彦さんが歌った同名ヒット曲のモデルであり、24年に「長嶋茂雄氏顕彰モニュメント」が設置された。「立教の後輩たちへ」と題された碑文からは、長嶋さんの母校愛が伝わってくる。

 「自分の持っているもの、そのすべてを出し切ったら、悔いのない一生になるはずです。そのために社会に出たら自分をどう表現したらいいのか。僕はそれを学ぶのが学生生活だと思います。自分を甘やかさないで、何事にも積極的に取り組んで、社会に出たら示すものをたくさん蓄えてください」

 作成に関わった立教学院の福田裕昭理事長(65)は、感謝を込めて言う。

 「今でも学生たちが立ち止まって、下を見ている光景を目にすることがあり、『何を見ているのかな?』と思うと長嶋さんの文章を読んでいる。そういう光景を見かけるとうれしいですし、やはり長嶋さんは誇りです。この先、長嶋さんを知らない世代がますます増えていくかもしれませんが、この碑文が語りかける学生へのメッセージは永く残り、長嶋さんの物語を未来に伝えていくかもしれません」

 母校に残るミスターの思いは、決して薄れることなく受け継がれていく。

 【参考文献】立教大学新聞(第143号、1957年6月8日)立教大学校友会報「セントポール」(第310号、1984年1月25日)

記録メモ 長嶋さんは巨人時代に故意四球(敬遠四球)が205個。王貞治さんの427個、張本勲さんの228個に次ぎ、プロ野球で3番目に多い。

 58年には新人ながら6試合連続の敬遠四球。61年にも6試合続けて歩かされると、10月11日の中日戦では途中からバットを捨て、手で打つ構えを見せた。敬遠策への抵抗?から、この試合を含めバットを持たずに構えた打席が5度もある。

 立大時代も敬遠は通算で17個あった。東京六大学リーグで通算23本の最多本塁打記録を持つ高橋由伸さんでも、慶大時代の敬遠は7個だから、いかに勝負を避けられていたかが分かる。

 ちなみに長嶋さんの4年時はリーグ戦の春、秋を合わせた17四球のうち、実に12個が敬遠四球だった。

 ◆長嶋さんの立大時代の主な世相

 ◇1954年(1年)

 ▽3月 第五福竜丸事件が発生

 ▽7月 自衛隊が発足

 ▽11月 映画「ゴジラ」の第1作が公開

 ◇55年(2年)

 ▽7月 後楽園ゆうえんちが開園

 ▽11月 当時の自由党と日本民主党の保守合同により自由民主党を結党

 ◇56年(3年)

 ▽1月 猪谷千春がコルティナダンペッツォ(イタリア)五輪スキー・アルペンの回転で、日本人初の冬季メダリストとなる銀メダル獲得

 ▽12月 日本が国際連合に加盟

 ◇57年(4年)

 ▽2月 岸信介内閣誕生

 ▽4月 センバツで王貞治投手の早実が初優勝

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