プロパガンダはいかにして真実を覆い隠すのか。南モンゴル出身で静岡大学教授の楊海英さんは「モンゴル人を大量虐殺しながら、それを隠蔽するために日本向けの月刊誌で内モンゴルの人びとの姿を、草原に笑顔があふれるかのようにでっち上げた」という――。

※本稿は、楊海英『未完の中国文化大革命』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
■中国には民族自決権がない
かつて内モンゴル軍区は中国八大軍区の1つであり、戦闘力の高い部隊が存在した。毛沢東からすると、万が一ソ連が攻めてきたとき、モンゴル人が寝返るかもしれないという恐怖があった。
そこでモンゴル軍区を北京軍区の下部組織に組み入れ、滕海清将軍の派遣後、内モンゴル前線指揮部(前指)をさらに2年後に設置し、内モンゴル軍隊を指揮下に入れた。以来、モンゴル人が軍区の司令官になることは一度もなかった。
中国では、現地出身の少数民族が自治区や自治政府の党書記になることはありえなかった。しかし、ソ連ではレーニン・スターリンの民族自決政策があり、憲法にも民族自決権が明記されているので、少数民族でも自治政府のトップになることができた。
カザフスタン共和国やウズベキスタン共和国も当初から党書記は現地人だ。そのために1991年のソ連邦崩壊によって独立できたのである。
一方、中国からの独立が難しいのはこの民族自決権がないからだ。ウラーンフーの粛清は中国の民族問題の本質を理解するうえでも象徴的かつ重要だった。
■「南モンゴルでは血の匂いがした」
滕海清将軍の派遣に次いで、林彪は部下の家維山を「内モンゴル征服者」として内モンゴル前線指揮部に司令官として派遣した。
こうしてモンゴル人の虐殺が大々的に展開された。
しかし、このジェノサイドは当時、国際社会に伝わらなかった。中国も事実を隠蔽し、『人民中国』1968年3月号で「赤い太陽は内蒙古草原を照らす!」という特集を組んでいる。
この年はちょうど虐殺がおこなわれていた時期にもかかわらず、「首都北京から若い男女三百余名が牧畜民として草原に住みつくためにやってくる」とのニュースを喜ぶ現地人の様子をでっち上げている。
ほぼ同じ時期に共同通信と朝日新聞も内モンゴルを訪問し、同じようなタイトルの記事を掲載している。
その後、私は2008年にモンゴル国(北モンゴル)のある外交官に会ったとき、「あなた方は当時、南(内)モンゴルの同胞たちが殺されていたのを知らなかったのですか?」と聞いたら、「もちろん、知っていた。当時の南モンゴルでは血の匂いがした」と語った。
満洲国時代に興安軍官学校を卒業したその外交官は国際列車に乗って、モスクワからモンゴルを経由して北京へ行き、さらにベトナムに赴任しようとしたとき、南モンゴルを通過した。住民の表情は暗く、血の匂いがするようだったという。
本当に匂ったわけではなく、比喩的表現だが、当時の社会的雰囲気を見事に感じ取っているのである。
■華僑を中国に送り返す外交紛争が勃発
一方、モンゴル人民共和国(北モンゴル)においても中国は毛語録を配布し、約2000人いた華僑に対して政治闘争を呼びかけた。これは明らかな内政干渉であり、モンゴル人民共和国は対抗措置として華僑を中国に送り返す外交紛争も起きた。

紅衛兵たちがソ連とモンゴル人民共和国を修正主義国家として批判していた当時、モンゴル人民共和国の外交官が北京市内を歩いていて、たまたま地面に落ちていた新聞を踏んづけた。
その新聞には毛沢東の肖像画が掲載されていたことから、紅衛兵がその外交官を吊るし上げるという事件も起きている。外交官は外交特権があるので、警察も手を出せないのに紅衛兵はお構いなしにやってしまった。
さらに、調子に乗った紅衛兵は内モンゴル自治区を廃止して、「反修(反修正主義)省」に改名しようと提案したが、さすがに却下された。
■珍宝島事件で惨敗した人民解放軍
内モンゴル自治区でモンゴル人の不満が高まるとともに、中国は当時、ソ連と同盟国のモンゴル人民共和国に駐留するソ連軍の南下を防ぐ戦略に迫られた。
そこで中国は、東方の黒龍江省北部でソ連との国境となるアムール川の支流、ウスリー川中流域の小島・珍宝島(ロシア語で「ダマンスキー島」)でソ連軍を故意に挑発し、衝突に至る。
1969年3月の出来事で、「珍宝島事件」という。この戦いで、人民解放軍は惨敗を喫した。その後も領土権争いは長く続き、1991年に中国領とすることで解決したが、後日明らかになったことには、1969年の紛争時は中ソ両軍とも核を用意していたらしい。
このように、国内の不満を外に向けるために紛争を起こすのは、中国の常套手段である。たとえば文化大革命後、ベトナムに対する中越戦争(1979年)が挙げられる。
中ソ対立は意外にも前章で述べた林彪元帥の墜落死で、沈着の方向へ向かう。
林彪の飛行機が落ちたモンゴル人民共和国には当時、ソ連が大軍を駐屯させていた。中国はそれを「百万の軍隊で圧力をかけている」と反論しながらも、実力の面では歯が立たないと知っていた。
ソ連とモンゴル人民共和国軍が仮に1945年8月のように再び南下してきたら、大量虐殺で不満が頂点に達していた南モンゴル人も再度、呼応するのが分かっていたからである。
■新疆ウイグル自治区の地政学
新疆ウイグル自治区も、モンゴル自治区と本質は同じである。ウイグル人もまた独立を望み、ウイグル人のイミンノフが「5人委員会」を創設した。「ウイグルスタン共和国」の成立を目指した。彼はモンゴルのウラーンフーのような存在だ。
1944年月、東トルキスタン共和国の建国を宣言する。この国の国民と軍隊は主にウイグル人、カザフ人、モンゴル人である。いわば三民族の合同革命で成立した共和国だ。その幹部たちはみなソ連留学生で、モスクワも当時は態度を曖昧にしていた。
三民族は当然、ソ連邦への加入、少なくともモンゴル人民共和国との統一を望んでいたが、スターリンの対応は冷淡だった。

ソ連邦への参加が絶たれると、今度はモンゴル人民共和国との統一を狙う。このことは日本ではあまり知られていないが、モンゴル人民共和国からすると新疆北部の併合は国家戦略上、ごく自然な発想である。
紀元前3世紀から紀元1世紀後半まで勢力を誇った匈奴の時代から、今日のカザフスタンや新疆一帯を指す西域は重要な場所だった。モンゴル高原で南面して立つと、匈奴は西域を自国の右腕だと認識していた。
漢は匈奴によって絶えず脅かされており、武帝は張騫(ちようけん)を月氏に派遣して同盟を結び、東西から匈奴を挟み撃ちにしようと考えた。
当時も、やはり西域が重要な拠点だった。古くから中国の西方に位置する中央アジア諸国は西域三十六国と総称されていたが、この3カ国を攻略して支配下に置けば匈奴の勢力を弱めることができるわけだ。
この地政学は現代にも適用できる。ウイグル人、カザフ人、モンゴル人も同様の戦略を考えたし、モンゴル人民共和国も熱心に応じたわけだが、現実は断念せざるをえなかった。
■漢人を送り込みウイグル人の人口と逆転
1957年、中国は新疆ウイグル自治区で反右派闘争をおこない、民族右派の摘発を進めた。3000人以上が摘発され、新疆ではソ連留学生組が全滅した。
毛は自分の手下を派遣して、足元から崩壊させる「沙を混ぜる」政策として「生産建設兵団」を派遣した。
人民解放軍と中国共産党に帰順した国民党の敗残兵を屯田兵として新疆に送り込んだのだ。
ウイグル人がそれまで住んでいたオアシスをすべて占領し、屯田兵が開拓していった。生産建設兵団を現地に定着させるため上海と山東省の売春婦たちを大量に送り込むと共に、毛の出身地である湖南省の少女たちを人民解放軍兵士として派遣した。
女性たちの意思など無視して現地の兵隊たちに「分配」され、家族をつくって定着する。当初2万人しかいなかった漢人が800万人にも膨れ上がり、ウイグル人との人口が逆転する。現在は1000万人を超えると算定される。
当然ながらウイグル人の不満が高まり、1962年4月から6月にかけて、新疆ウイグル自治区西部イリ、タルバガタイ地域で中国の支配に抵抗したウイグル人とカザフ人約6万7000人がソ連へ亡命した。
■漢人はほぼ例外なく現地人を敵視
彼らは今もカザフスタンやウズベキスタンにおり、私は継続的にインタビューを実施している。ただし、両国とも中国に融和的なのであまり熱心に応じてくれないのも現状である。
このようにモンゴル人もウイグル人も独立と建国を望んだが、叶わなかった。ソ連邦への参加も拒絶された。ソ連型の自治共和国も実現できず、中国から敵視され、文化大革命で粛清されることになる。

内モンゴルも新疆ウイグルも中国に対して強烈な不信感をもっているので、1966年に文化大革命が始まったとき、運動には熱心に参加していないし、また参加できない。
そのため、内モンゴル自治区でも新疆ウイグル自治区においても、造反派・保守派とも現地の中国人すなわち漢人が主体で、モンゴル人やウイグル人はほとんど関与していない。
漢人すなわち中国人はほぼ例外なく現地人を敵視しているので、造反派も保守派も摘発や弾圧が始まると、一致団結して向かってくる。その結果、民族間の対立が鮮明になり、ジェノサイドが起こった。
■「漢人も犠牲者」説は成り立たない
チベットも同様だ。チベット蜂起によって1959年にダライ・ラマ1世が人民解放軍の攻撃に対してインドに亡命し、チベット臨時政府の樹立を宣言する。法王を慕うチベット人たち8万人もインドに亡命した。
中国政府の記録によれば、1959年3月から年3月までに人民解放軍は9万3000人のチベット人を虐殺している。チベット動乱の犠牲者は総人口の5分の1にあたる120万人とする研究者もいる。
チベットに残された人たちも中国に抵抗するが、なすすべもなく弾圧された。
こうした民族弾圧について、中国では「文化大革命中は、ウイグル人もモンゴル人もチベット人も漢人も犠牲者だった」とか、「国家主席の劉少奇のような地位の高い人も粛清されているのだから、漢人も被害者だ」という言説を弄(ろう)する人もいる。だが、私はその言い分はまったく成り立たないと考える。
なぜなら、内モンゴルも新疆ウイグルもチベットも中国人は少数民族に対して団結して弾圧に加わった。造反派も保守派も、幹部も軍人も学生もエリートも農民も、政府側に立って少数民族を執拗(しつよう)に攻撃したのだ。
また、「劉少奇も被害者だ」という言説は人命軽視である。劉少奇も、名も知れないウイグル人もモンゴル人もチベット人も同じ命である。私はそういう見方があるからこそ、中国で文化大革命研究が停滞していると考える。
■「アイヌを原始民族扱いしている」と糾弾
1969年春のある日、東京大学文化人類学教室に教官の祖父江孝男(そふえたかお)(1926~2012、国立民族学博物館名誉教授)が入ろうとすると、博士課程の学生だった清水昭俊(あきとし)(1942~、国立民族学博物館名誉教授)たちが、赤旗を持って抗議の陣を張った。
彼らは「文化人類学(民族学)は植民地、アメリカ帝国主義の学問・理論であり、我々が学ぶ必要はない。しかも、アイヌを原始民族扱いしている」と祖父江を糾弾した。いわゆる全共闘系「文化人類学コース闘争」である。
清水の一橋大学最終講義『これまでの仕事、これからの仕事』(『くにたち人類学研究』収録)などによると、1968年に日本の人類学会と民族学会が国際会議を開催し、世界中から集まってきた学者たちを連れて北海道のアイヌ村を訪れる際、旅行会社の宣伝文で「目の前に原始民族をみることができます」という謳(うた)い文句があったらしい。
清水も「これはけしからん」と思い、組織委員会に手紙を送り、「こんなことを人類学者がやっていいのか?」と抗議し、アイヌツアーを中止した方がいいと書いている。祖父江がアイヌ民族を差別したわけではないが、文化人類学の泰斗(たいと)に文句をいいたかったのだろう。
■文化大革命と日本との連動
このとき、東大の門柱には「造反有理帝大解体」と書かれていた。この年1月には機動隊が8500人も投入され、占拠されていた安田講堂の封鎖解除を断行した。
文化大革命の影響は世界に広がっていたが、なかでも日本への影響は大きく、しかも中国共産党と相互に連動し合っていた。
じつは私は、清水から多大な学恩を受けている。清水はその後、日本の親族組織研究の大御所になるが、私が国立民族学博物館併設の大学院博士課程に在学していた頃、清水から親族組織理論、農村調査手法、植民地批判理論などさまざまなことを学んだ。とても温厚な先生で、赤旗を持っている雄姿は想像できない。
文化大革命の思想と手法は世界中に輸出され、欧米の新左翼運動や南米のセンデロ・ルミノソ(輝ける道)という極左ゲリラ組織などに影響を与えた。東南アジアでは紅衛兵たちが直接革命を持ち込み、一部はゴールデン・トライアングルの麻薬組織にも関わっている。
ただし、思想と文化の面で最大の影響を与えたのは日本だと考える。同時に文化大革命もまた日本から大きな影響を受け、連動し合っている。

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楊 海英(よう・かいえい)

静岡大学教授/文化人類学者

1964年、南モンゴル(中国・内モンゴル自治区)出身。北京第二外国語学院大学日本語学科卒業。1989年に来日。国立民族学博物館、総合研究大学院大学で文学博士。2000年に帰化し、2006年から現職。司馬遼太郎賞や正論新風賞などを受賞。著書に『逆転の大中国史』『独裁の中国現代史』など。

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(静岡大学教授/文化人類学者 楊 海英)
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