■信長が恐れた男、上杉謙信
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第19回(5月17日)は、織田と上杉が激突する手取川の戦いが描かれた。1577年、七尾城の落城後に加賀国手取川で両軍は激突、上杉軍を迎え撃った羽柴秀吉(池松壮亮)と柴田勝家(山口馬木也)だったが、羽柴秀吉が無断で離脱したこともあり織田軍が大敗したとされる戦いである。
やはり注目なのは、強敵である上杉謙信(工藤潤矢)の描かれ方である。なにせ、「豊臣兄弟!」はドラマならではの脚色が強烈だ。三方ヶ原の戦いで登場した武田信玄(髙嶋政伸)は、登場早々から不気味な存在感を発揮したと思ったら、いきなり餅を喉に詰めて死亡退場……。確かに、信玄の急死がどういったものかは史料が残されてないから想像し放題なのだが、インパクトが強すぎる。
謙信も、手取川の戦いの翌年1578年には死去している。広く知られている脳溢血による急死は江戸時代になって唱えられた説だ。次回の第20回以降、物語のオチとして謙信の死も描かれると思うが、信玄と並ぶインパクト絶大な死亡退場もありえそうだ。
ともあれ確かなのは、謙信が信長(小栗旬)にとって、恐れるべき強敵であったことだ。
■武田信玄は“思考が読める相手”だったが…
しかし、謙信への恐れは別格だったはず。いったい、謙信のなにがそんなに脅威だったといえるのだろうか。
信長視点に立つと、信玄は脅威であるが思考が読める相手だったといえる。とにかく強敵なのは間違いがない。三方ヶ原では、家康の軍を完膚なきまでに叩きのめした。信長にとっても、包囲網の要として存在感は絶大だった。
しかし、その行動原理は極めて単純だ。突き詰めれば「損得」である。
近年発見された書状には、信玄が信長に対して「越後(上杉氏)と甲斐(武田氏)が戦争になったら、何をおいてもお味方くださるとのこと、頼もしく存じます」と謝意を伝えている内容のものまである。あくまでうわべの外交儀礼ともいえるが、時には組める相手、交渉次第でどうにかなる、と考えていたことは間違いないだろう(『読売新聞』2020年1月13日付朝刊)。
■上杉謙信とは当初、同盟関係にあった
では、謙信はどうだろうか。信長と謙信は、当初は同盟関係にあった。上洛後は、共通の敵である信玄への対抗という利害が一致したのか、足利義昭を将軍として奉戴するという大義名分のもとで連携していたのだ。信長はこの関係を極めて重視していた。現在、山形県米沢市上杉博物館が所蔵している国宝「上杉本洛中洛外図屏風」は狩野永徳が手掛け、1574年に信長から謙信に贈られたものと伝えられている。
これが送られた背景は、信玄との同盟が手切れになった後の変化がある。朝倉・浅井や畿内周辺の諸勢力に加えて信玄との対峙を余儀なくされた信長は、謙信との同盟に至ったわけである。
就越甲和与之儀、被加上意之条、内事去秋以使者申候処、信玄所行寔前代未聞之無道、且者不知侍之義理、且者不顧都鄙之嘲笑次第、無是非題目候。
(上杉謙信殿と武田信玄の)越後と甲斐の和睦の件については、将軍様(足利義昭)の命令もあって、私(信長)も内々に去年の秋から使者を送って調整してまいりました。
しかし、今回の信玄の振る舞いは、まさに前代未聞の非道なものです。そもそも侍としての義理をわきまえておらず、都や田舎の人々から(約束を破ったと)あざ笑われることも全く気に留めていない様子。もはや、これについては是非を論じるまでもない(救いようのない)話であります(井上鋭夫 校注『上杉史料集』中巻 新人物往来社 1969年)。
■垣間見える“信長の気遣い”、焦りがあったか
信長は怒るというよりあきれ果てた感じでめちゃくちゃ謙信にすり寄っている「いや~、あの信玄の野郎、俺が将軍の意を受けて頑張ってたのに、いきなり攻め込んできたんですわ‼ 仁義も知らない酷いやつですわ~」という雰囲気である。
このほかにも書状では「以誓詞蒙仰之趣愚と意令卒喙之間(貴殿が誓紙をもって仰られた趣旨と、私の愚かな考えが一致しました)」とか、とにかく下手に出まくりである。
この後『北越軍談』では、この書状で同盟締結に至る過程を解説している。そこでは、大徳寺の唐首座や長与市(長景連)などが奔走、とにかく謙信が同盟を締結しやすい状況に持ち込む下準備をしたことが記されている。とりわけ『北越軍談』では、書状に卒喙=雛が内側から殻を突き(卒)、母鳥が外から殻を突く(喙)。
魔王と呼ばれる信長が、存外に気遣いの人だったことを知らしめるポイントだが、同時に、なんとしてでも同盟しないとヤバイという焦りがあったことを示すものだ。なにより、この文書、具体的な部分は「猶長与可被有口上候(詳細は使者の長与が口頭で伝えます)」とだけして、とにかく感情だけで押し切っている。とにかく「謙信さん、あなたは正しい! 信玄は最悪だ! 僕たち、運命の赤い糸で結ばれてますよね(卒喙)!」と、まずは感情を120%ぶつけて、謙信を「その気」にさせることが最優先になっているのだ。
■信長はさぞ混乱していたか
正直、信長にしてみれば「め、面倒くせえ……」であろう。
信玄は、なんか不気味なキャラみたいに思われているものの、損得で決められる相手である。しかし、謙信は違う。義で動くみたいなことをいってるけど、なにが義かを判断するのは、自分の感情である。ようは、好きか嫌いかで全部を判断するし、感情がすべてだから、その日の気分でブレる。おそらくは、家臣や使者たちから謙信の情報をかき集めた信長だが、きっと余計に混乱しただろう。
景連「いや~謙信様はですね、義のために戦う方でして」
信長「ほう、義ね。で、何が義なの」
景連「それは……その時々で」
信長「その時々?」
景連「はい、謙信様がそう感じられた時が義でございます」
信長「……感じた時?」
景連「はい」
信長「つまり気分?」
景連「……義です」
信長「……め、面倒くせえ、デートじゃねえんだよ!!!」
しかし、笑い話で済まないのが謙信の本当の怖さだ。
■“読めない謙信”と激突した、手取川の戦い
そもそも能登は、織田と上杉の勢力が拮抗する際どい場所だ。しかも七尾城の城主は、守護・畠山義隆が死去した後を継いだ幼児の畠山春王丸である。つまり謙信がちょっかいをかけたのは、お世辞にも強いとは言えない相手だ。信玄ならまず「今ここを突いたら信長との関係がどうなるか」と計算する。しかし謙信は計算しない。感情が「今だ」と言えば動く。だから進路が読めない。義とかなんとか、カッコイイことをいっているけれども、実際は気分で動いているだけである。
そしてその読めない謙信と、ついに織田軍は激突したのが、手取川の戦いである。この面倒くさい相手との戦いを、信長は柴田勝家に丸投げした形になったわけだ。
かたや謙信は、手取川の戦いの後に気分は上々だったようだ。
江戸時代に編纂された『歴代古案(江戸時代に越後長尾氏=越後上杉氏の文書を収集したもの)』にはこんな文書が収録されている。
安外ニ手弱之様体、此分ニ候ハ、向後天下迄之仕合心安候
(織田軍は)思いのほか手弱な様子、このぶんでは今後、天下取りも心安く(楽勝で)いけそうだ。
(高橋義彦 編『越佐史料』巻5 名著出版1971年)
■外交も調略もムダになる“怖さ”
もうノリノリで「織田軍は雑魚、このまま天下いけそうだな」というわけである。一度勝っただけでお気楽すぎるような気もする。しかしこれが謙信なのだ。感情が上がれば天下も見える。それが謙信という男だった。
信長が謙信を恐れた理由は、強さだけではなかった。
読めない、理屈も通じない、感情で動く……これが組み合わさると、どんな外交も調略も無効になる。信玄相手には罵倒できた。謙信相手には屏風を贈って平身低頭するしかなかった。そしてその謙信は、手取川で織田軍を撃破した翌年、突然死んだ。信長が本当に運が良かったのは、この面倒くさい相手が、上洛を果たす前に自分で止まってくれたことだ。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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