優秀な人材を逃さないためにできることは何か。みずほ総合研究所調査部主席エコノミストの河田皓史さんは「人がFIRE――つまり早期リタイアする職場には特徴がある。
とくに優秀な若手のモチベーションを下げる人物には注意が必要だ」という――。
※本稿は、河田皓史『働く人が減っていく国でこれから起きること』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。
■「賃金カーブのフラット化」問題
最優秀層に特別待遇をオファーする以外に、FIRE抑止策として何が考えられるだろうか。もっともシンプルなアンサーは、「中高年層の賃金を上げる」ことである。要するに、「早く辞めてしまうと損」という状況を作り出していけば、ストレートにFIREを抑制する効果が期待される。
この点、現在は逆のことが起こっている。つまり、最近の賃上げにおいては、初任給の大幅アップを含め、若年層に手厚く配分することがトレンドとなっており、中高年層の賃上げは抑制気味になることが多い。年齢階級別の賃金水準、いわゆる賃金カーブについて2010年と2024年を比較すると、若年層の賃金が上昇している一方、中高年層の賃金が低下していることがわかる(図表1)。
つまり、初任給引き上げ等により若年時の給料が増加する一方、経験年数が高まるにつれての昇給ペースが以前よりも鈍くなっているわけである(こうした現象を経済学では「賃金カーブのフラット化」と呼ぶ)。
賃金カーブのフラット化が進むと、若年層がFIREに向けた資金を貯めやすくなる一方で、中高年層にとって「会社で働くこと」の価値は低下するため、長い目で見てFIREの増加を促す効果を持つ可能性が高い。だからと言って、中高年層の賃金を一律に上げていけばいいかというとそれも疑問である。少なくとも企業はそういう発想をほとんど持っていないだろう。

■中高年層の賃金が上がらない理由
1つの理由は、年功序列を背景に中高年層は総じて賃金水準が高いほか、現在の人口ピラミッドのもとでは人数も多いため、例えば「20代従業員の賃金を1%上げる」のと「50代従業員の賃金を1%上げる」のだと、後者のほうが会社の総人件費に対する負担は大きくなる。初任給大幅アップをはじめとして若年層の賃金が大きく上がっているのも、「若年層の給料を大きめに上げても、会社にとってそれほど負担が大きくない」ということが大きく影響しているとみられる。
中高年層の一律賃上げが企業にとっての選択肢にならない2つめの理由は、前にも書いたことだが、現状では中高年層の転職市場が薄く、転職可能性が小さいということである。要するに、企業は「どうせ他に行き場がないのだから、会社の言い値を受け入れざるを得ないだろう」と高をくくっている部分があるとみられる。
3つめの理由として、生産性が賃金を下回る「働かないおじさん」の賃金をこれ以上上げることは何としても避けたいということだろう。
これらを総合して考えると、「非常に優秀で希少性の高い人材に限定して、中高年期にかけての賃金を大きく上げる」というのが、企業が取り得るFIRE抑止策としてはある程度合理的に思える。
■下準備としての「脱・年功序列」
こう言ってしまえば単純な話だが、これができていない企業が多いのが日本の現状である。特に、年功序列の人事体系が残っている会社では、こうした対応は現実的に難しい。そういう会社の場合、例えば「15年目で同期の50%が課長まで昇進、25年目で同期の20%が部長まで昇進、30年目で同期の5%が役員まで昇進」というように、「昇格標準年次」と「昇格枠」が定められていることがほとんどだと思う(「会社」ではないが、役所がその典型である)。
こうした人事体系の場合、際立って優秀な人材に特別に高い賃金を支払うことが極めて困難である。際立って優秀な人材でも「昇格可能年次」に到達しないと昇格できない(=給料があまり上がらない)一方で、逆に平々凡々な人材でも「この世代はもう課長年次だから」というような年功序列的・横並び的発想で昇格してしまう(=給料が上がってしまう)ということが起こりやすい。
結果として、優秀な人材ほど生産性対比で賃金が割安になるので、生産性見合いの賃金を支払う会社(多くの場合は外資系企業)に転職してしまう可能性が高いだろう。
ここ数年、中央省庁などで離職者が急増しているのはこうした要因も影響しているとみられる。
以上をまとめると、FIRE抑止に向けた最もシンプルな対応策は「生産性が高く、辞められると困る人材に限定して、中高年期の賃金を大きく上げる」ということであり、それを実現するための下準備として、人事体系の脱「年功序列」を進めることが必要である。
■ネガティブな要素をなくしていく
「年次が上の人が無条件で偉い」という年功序列的あるいは部活的発想は日本社会に深く染みついてしまっているため、脱「年功序列」の難易度は高いだろう。だが、最優秀人材の獲得・係留可否は「優勝劣敗」に直結することが予想されるため、取り組む価値のある課題だと思う。
賃金以外にもやれることはある。そもそもFIRE願望の根底には「仕事・会社」に対するネガティブ意識があるわけなので、そうした意識につながっている要因を一つひとつ潰していくのも有益なはずである。
第1部で、人々の仕事・会社に対するネガティブ意識を形成している要因の例として、「相次ぐ長時間の会議、旧態依然とした業務フロー、過剰な社内調整、終わりなき出世競争、『偉い人』に対する忖度、各種ハラスメント」を挙げた。こうしたネガティブ要因を一つひとつ潰していくことは、会社へのネガティブ意識を低下させることを通じてFIRE抑止につながるのと同時に、多くの場合は生産性向上にもつながるはずで、一石二鳥であるため強力に推し進めていくべきである。
こうした要因を潰し切った会社が次第に「良い会社」と評価され、優秀な人材を集めやすくなるだろう。
■FIRE願望につながる7つの要因
また、FIRE願望の高まりにつながっているとみられる要因を下記のようにまとめた。
①日本経済の成長停滞に伴い「面白い仕事」が減っていること

②管理職の労働負担と賃金が釣り合わないケースが増えていること

③「働かないおじさん」が若年層のモチベーションを下げていること

④「JTC」という言葉で揶揄されるような非合理・非効率な企業文化が多く残存していること

⑤NISAなどをきっかけに資産運用に関する知識や意欲が高まったこと

⑥非婚化(単身世帯化)の進展により「人生所要金額」が低下した人が増えたこと

⑦株主が重視される裏側で従業員が軽視されがちになっていること

これらの問題を解決していくこともFIRE抑止効果を持つはずである。ただ、これらのうち①については、残念ながら短期的には解決策がないと思う。
敢(あ)えて言えばベンチャービジネスがもっと増えるといいのだろうが、これは企業の努力より個人の努力(というかベンチャースピリットやアニマルスピリット)に依存するところが大きい。⑤も基本的には不可逆である。⑥は一国全体では重要な課題だが一企業の取り組みでどうこうできるものではない。
一方、各企業の取り組み次第で解決できる可能性があるのは②、③、④、⑦だろう。特に、④は経営者がその気になればすぐにでも解決に向かうことができるはずである。②と③は④と比べれば若干難しいが、組織・賃金体系の見直しにより生産性と賃金が乖離(かいり)しにくくすれば解決可能であるため、本質的には対処可能な問題である。
■株主か従業員かという問題は難しい
②、③、④、⑦の中で最も解決が難しいのは⑦だろう。コーポレートガバナンス改革や資本市場改革などを背景に、株主還元を重視する流れはかなり強固なものとなっている。少なくとも上場企業については、「株主か従業員か」という二者択一を迫られた際に、株主を捨てて従業員への還元を重視するようになるというのは現実的に想定しにくい。
無論、株主還元と従業員還元は必ずしも排反ではない。株主還元と従業員還元を両立するためには、2010年代後半から多くの有識者が指摘してきた通り、内部留保(利益剰余金)の積み上げペースを緩めればいいだけである。
もちろん、利益剰余金の積み上げによって資本基盤を頑強にすることも重要だが、これまでの内部留保蓄積により少なくとも日本企業全体でみた資本基盤は既に十分な水準に達しているとみられ、今後もハイペースで利益剰余金を積み上げる必要性は大きくないように思える。
つまり、利益剰余金に回していた分のいくらかを人件費に回し、同時に配当性向を上げれば、株主還元を維持しつつ労働分配率を引き上げること(を通じた実質賃金の改善)は可能である。
企業の粗利益分配を巡る論点・議論についてより詳しく知りたい方は、例えば、伊丹敬之(2024)『漂流する日本企業』や脇田成(2024)『日本経済の故障箇所』などを参照されたい。
■生産性を改善する
②と③への対策としては、キャリアトラックのさらなる複線化(理想的には、個人ごとに最適化されたキャリアトラックを許容し得るような柔軟性のある人事制度)が必要である。結局のところ、日本企業が人材面で抱える問題の多くは、生産性と賃金の乖離が長期的に是正されないような組織・賃金体系としての「年功序列」に起因するところが少なくない。
近年注目度が高まった「ジョブ型」雇用について、言葉の普及に伴って批判も増えてきた印象はあるが、方向性としては正しいと思う。少なくとも、生産性と賃金の乖離が今よりは生じにくくなるはずだし、それにより中高年層の賃金水準が生産性見合いの水準に調整される(→「コスパの悪い管理職」や「働かないおじさん」が消滅する)ことはある程度期待できると思う。
このほか、ある程度のFIRE増加を見越した生産性改善も必要である(FIRE云々によらず生産性改善は常に必要だが)。ロボット導入等の省力化投資やAI活用を進めることで、同じアウトプットを産出するための労働投入量を下げる余地はまだまだ大量に残されているはずである。AIやロボットでもできることは徹底してそちらにやらせて、人間は人間にしかできないことをやっていくということが今後は必要になる。
■FIRE抑止に政府は介入できるのか
FIRE抑止に向けた政府の役割は何だろうか。先に述べた通り、⑥への対応については一企業ではどうしようもなく、政府の取り組みが重要である。もちろん政府もこの問題を認識し、各種の取り組みを打ってはいるが、残念ながら非婚化のトレンドを反転させることはできていない。
とはいえ、放置するにはあまりにも大きな問題であり、諦めるわけにもいかない。この点については、改めて議論することにしたい。
⑦に対して政府が何をすべきかは難しい問題である。株主と従業員のどちらをどの程度重視するかについては企業の判断が尊重されるべきであり、本質的には政府が介入するべき問題ではない。ただ、企業にとって最適な行動を積み上げた結果が一国全体で最適な行動にならない(いわゆる「合成の誤謬(ごびゅう)」)とすれば、政府が介入することに一定の正当性が生じる。ただ、具体的にどう介入すべきかというのも難しい問題である。
そもそも株主重視の流れは政府が後押ししてきた面も大きい。それによって日本株に対する海外投資家の評価がある程度高まり、株価が最高値を大幅に更新するなどの成果も出ているため、これを巻き戻すのは現実的には難しい。無理に巻き戻そうとすれば外国人投資家の失望とそれによる株価急落を招く可能性がある。
また、一般論として政府は過去の政策が誤りであったことをそう簡単には認めないため、その意味でもハードルが高い。現実的な落としどころは、株主還元促進策をこれ以上追加しないということにしたうえで、従業員への還元を促すような税制面等での優遇措置(既存の「賃上げ促進税制」など)をさらに強化していくといったあたりではないかと思う。

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河田 皓史(かわた・ひろし)

エコノミスト

1987年生まれ。
岩手県出身。みずほ総合研究所調査部 主席エコノミスト。東京大学経済学部卒。デューク大学大学院経済学修士課程修了(経済学修士)。日本銀行を経て、2023年11月みずほリサーチ&テクノロジーズ(現・みずほ総合研究所<※みずほ総合研究所はみずほ銀行内の組織の名称>)入社。

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(エコノミスト 河田 皓史)
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