「大丸」も参加…なぜ?

 唯一の国産旅客機として知られる「YS-11」は設計が進んでいた1960年代、完成には飛行機設計者や機械メーカーに限らず多くのジャンルの企業の協力を必要としました。なんとその協力企業のなかには、有名百貨店の名前もあったのです。

どういった理由からなのでしょうか。

【写真】えっ…これが「デパート品質のYS-11客室」全貌です

 YS-11は今から見れば客席数は60席ほどの小さなプロペラ機です。1965年4月1日に当時の日本国内航空が定期路線へ就航させましたが、生産数は182機で決して多いとは言えず、1973年に約360億円の赤字を残して事業としては終わりました。しかし、開発の始まった当時は、戦後日本の復興を担う旅客機として、大きな期待がかけられていたのです。

 旅客機は飛ぶための性能確保がもちろん大切ですが、同時に乗客が目的地まで快適に過ごすことも重要な性能になります。そうでなければ航空会社からの注文は集まりません。これを念頭にYS-11開発の記録を見ると、機体設計者や就航後の航空会社の苦労は多く語り継がれていますが、内装を実用化するまでの苦労は、あまり語られていません。

 YS-11の客室を快適にするためのコラボレーション先に選ばれたのは、有名百貨店「大丸」です。大丸の社史によると、同社の「室内装工部航空機課」がYS-11の内装工事を受注したのは、1963年4月1日でした。YS-11の初飛行は1962年8月30日だったので、量産機の充実が急務となっていたことがうかがえます。

気泡の解消にもひと苦労

 その一方、設計者や操縦士たちの回顧を開くと試作機の設計段階では、客室の内装はもっぱら重量軽減の対象であり、航空技術者が受け持ったと言われています。とはいえ、量産機は「売れる」ようにしなければならないのは明らかでした。

そこで、建築物や船舶の内装に経験の深い大丸に白羽の矢が立てられたというわけです。

 内装は例えば機内にレザー張りを施すには、工作のスキルが必要です。気圧の低い高度で飛ぶさい、内側に残ったわずかな空気がレザーを膨らませてしまうのです。これに対し、大丸側はごく小さな穴をミシン目のようにレザーに開けて空気抜きとし、気泡を解消したといわれています。言葉にすると短いですが、レザーを納得のいくまで張るまでには激論や試行錯誤があったとのことです。

 今でいう異業種コラボですが、実際、重量を減らしたり難燃性にしたりするのに見合う素材を探すのも、設計者より多くの内装関連の会社と取引のある大丸が存在感を発揮したと伝えられています。

 航空会社としては、量産につながる最初の発注社、いわゆる「ローンチカスタマー」だったANA(全日本空輸)の力もありました。

試作機を見て「少なくとも旅客機ではない」と最初に感じたANAの担当者は、座席の重量軽減なども合わせて客室をどう実用化していくか悩んだそうです。座席の布地も60席すべてを合わせれば、飛行性能上無視できない重さになります。それをどう減らし、しかも燃えにくくするような加工が求められました。

さらに望む布地が開発できても、クリーニングが容易でなければ経費がかさみ、日々の運航に使うのは難しくなります。YS-11の実用化にあたっては、内装においても、こうした難題があり、それを克服していったのです。

 2026年はYS-11が定期路線から引退して20年になります。千葉県芝山町の航空科学博物館では展示されたYS-11の修復へ調査と準備が始まっています。既に歴史の一部になったYS-11ですが、引退から20年を機会に思い出してみるのも良いかもしれません。

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