辻発彦が語る日本シリーズ激闘の記憶(前編)

 辻発彦と言えば、日本シリーズである。10度出場し、うち7回で日本一。

「走」「攻」「守」のそれぞれの分野で、チームの勝敗を左右する決定的なシーンを何度も演出してきた。昨シーズンを最後に西武の監督を退き、今年から解説者として新たなスタートをきる辻発彦氏にあらためて日本シリーズの名場面を振り返ってもらった。

辻発彦が明かす87年日本シリーズ「伝説の走塁」の真相「巨人の...の画像はこちら >>

87年、巨人との日本シリーズ第7戦、シングルヒットで一塁から本塁を陥れた西武の辻発彦

【1987年の伝説の走塁】

── 2リーグ分立後、これまで計73回の日本シリーズにおいて、「球史に残る日本シリーズ」と言えば、1958年の西鉄対巨人、1979年の広島対近鉄、1983、87、90、95年の西武対巨人、1985年の阪神対西武、1992、93年の西武対ヤクルトが挙げられると思います。そのうち、辻さんは85年以降の3カードに出場しています。

 プロ入り2年目の85年に阪神を相手に初めて日本シリーズを経験しましたが、その時はものすごく緊張したという感じではありませんでした。翌86年は広島を相手に引き分けから3連敗のあと4連勝。そちらのほうが強く印象に残っています。

── 辻さんは走攻守で活躍されましたが、やはり87年の巨人との日本シリーズで、第6戦にシングルヒットで一塁からホームインした"伝説の走塁"がありました。巨人を率いた王貞治監督は初めての日本シリーズということで強く意気込んでいました。

 私も、日本シリーズで初めての巨人戦ということで緊張しました。私は佐賀出身で、子どもの頃から意識したのは西鉄(現・西武)と巨人でした。やはり当時は、野球と言えば巨人で、球界の盟主でしたから。自分でも驚くくらい、巨人を意識していました。

 87年の日本シリーズは、あの走塁で注目を浴びたのでペナントレースでも活躍していたと思われるファンの方が多いと思いますが、開幕前のオープン戦で右手人差し指を骨折して、51試合しか出場していないのです。シーズン25安打、打率.200で、下位打線を打っていましたが、日本シリーズ中に調子を上げ、第4戦から2番に打順が上がったんです。

── 巨人との日本シリーズ前、ミーティングはどのような内容だったのですか。

 ミーティングはいろいろ分析しました。実際、試合をやっていて実感したことですが、当時の巨人は足を絡めた攻撃の怖さはあまりなかったです。だから、守っていてプレッシャーは感じませんでした。

── ただ巨人は3割打者が5人。対する西武はシーズン66完投と、「打の巨人」対「投の西武」という構図だったと思います。

 87年は、チーム打率はリーグ6位でしたが、チーム防御率は1位。東尾修さん15勝、工藤公康15勝、郭泰源13勝、松沼博久さん8勝。とにかく強力な投手陣でした。日本シリーズは短期決戦ですから、ラッキーボーイ的な選手が必ず出てくるものですが、打つのはなかなか難しい。

戦い方としては、しっかり守って、少ないチャンスで足を絡めてモノにするという展開を描いていました。それで一番研究したのが、巨人の投手陣です。

── 巨人は打のチームでしたが、桑田真澄15勝、江川卓13勝、槙原寛己10勝、西本聖8勝と、先発の頭数は揃っていました。

 江川さんはストレートとカーブ、西本さんはシュート、桑田は抜群のコントロールを持っているというのは、あらかじめ分析していました。あとセンターを守るクロマティの守備に関しては、しっかりミーティングをしました。とにかく肩は強くない。

それに守備の動きも緩慢だということで、「二塁走者なら必ず本塁にいける。一塁走者はセンター前ヒットでも三塁に行くチャンスがある」と。

【見逃さなかった巨人の緩慢プレー】

── 西武の3勝2敗で迎えた第6戦、2回にブコビッチが打ったセンター後方への飛球で、二塁走者の清原和博が生還しています。クロマティはよく捕りましたが、返球が高く逸れました。

 三塁コーチの伊原(春樹)さんは狙っていたんでしょうね。二塁走者はタッチアップしてもふつうは三塁までしか進みませんが、それを伊原コーチは腕を回した。もしキヨ(清原)がそのまま本塁に向かっていたらアウトだったと思います。

だから、キヨは一瞬止まりました。クロマティから中継に入ったショートの・鴻野淳基選手への返球が悪送球となり、バックアップに入ったセカンドの篠塚利夫(現・和典)選手が三塁に投げた。「清原が三塁ベースに戻ってくるだろう」と思い込んでいたサードの原辰徳選手は左回りでタッチにいった。そうしたらキヨは本塁に突入していたんです。

 そういうところが巨人の守備の間違いでしたね。走者に背を向けてはいけないんです。カットマンは、捕ったら必ず走者を確認しないといけない。あの時だったら、原選手は捕ったら右方向に振り向けば、本塁に突入したキヨが視界に入ったはず。すぐ本塁に送球していたらアウトになったと思うんです。

── そして西武の2対1で迎えた8回裏、二死から辻さんが安打で出塁し、つづく秋山幸二選手のセンター前ヒットをクロマティの緩慢な守備、山なりの返球の隙を突いて一気に生還。

 二死走者一塁で、当時の私は(いつでも走ってもいい)という"グリーンライト"のサインが出ていました。ただ、リードは1点ですし、無理して走るよりも秋山の長打に期待しようというシチュエーションでした。打球はセンター前でも、やや左中間寄り。「クロマティは左投げだし、100%三塁にはいけるな」と、全力で二塁ベースを蹴ったんです。そして伊原コーチを見たらアクションが大きく感じて、目を見開いているじゃないですか。

 クロマティがジャッグルしたのか、悪送球になったのかわからない。ただ「本塁にいくぞ!」という雰囲気を察知したのです。本当にまったくスピードが落ちることなく、本塁までいくことができました。私の走塁の時もそうでしたが、センターからの返球をショートの川相昌弘選手が捕った。三塁を回った私のほうに目線をやって、すぐにバックホームしたらアウトになっているんですよ。それを「三塁走者は止まっているだろう。それよりも打者走者の秋山を二塁に進塁させまい」と二塁ベース方向に回転したがゆえに、バックホームが遅れたということです。
 
── 辻さんは本塁に滑り込み、ガッツポーズをして歓喜のジャンプ。山倉和博捕手は「ああ......」という落胆の表情でした。

 8回裏で3対1。「これで勝てた。日本一だ!」と確信した喜びだったと思います。

【清原和博の涙】

── 9回表二死、日本一まであとひとりになった時、涙を流す清原選手に辻さんが歩み寄り、肩を抱いて激励していました。85年のドラフトで、清原選手は熱望していた巨人から指名されませんでした。各選手が野球にかける「熱いドラマ」を感じました。それにしても、辻さんはよく清原選手が泣いているのに気づきましたね。

 最初に気づいたのは一塁塁審の寺本勇さんです。一塁ベース後方に位置していた寺本さんが、キヨ(清原)の「異変」に気づいて近寄って顔をのぞき込んでいたんです。だから私がタイムをかけてキヨに駆け寄りました。

── マウンドにいた工藤公康投手は「日本一のガッツポーズまで考えていたのに、左打者の篠塚さんにキヨが守る一塁へ打たせられなくなって大変だった(結果はセンターフライ)」とのちに語っておられました。

 巨人との因縁が一瞬にしてよみがえってきたのでしょう。私も日本一が目前で、うれしくて感極まっていましたが、巨人に勝ちたいという気持ちを一番強く持っていたのがキヨだったんでしょう。ただ、試合はまだ終わっていない。だから「大丈夫か。ちゃんとボールは見えるか? 泣くなら試合が終わってから泣け」と。キヨは「泣きながら大丈夫です」って言っていましたね(笑)。

── あのシリーズ、石毛宏典選手と工藤投手のかけ合い漫才的なお立ち台のヒーローインタビューも話題になりました。あれを見て感じたのは、チームの雰囲気がすごくいいなということでした。

 もう本当に最高でしたよ。83年の巨人との日本シリーズは、石毛さんや工藤がいたとはいえ、田淵幸一さん、山崎裕之さん、片平晋作さん、大田卓司さんらベテランが中心でした。しかし、87年は若手中心の"新生・ライオンズ"で巨人を倒しましたから。そういう意味ではもう本当に「オレたちは強いな」と。野手陣は投手陣を12球団ナンバーワンだと思っていましたし、投手陣も野手陣のことをすごく信頼してくれていた。一人ひとりがやるべきことをわかっていたし、自分たちに対しても相手に対しても厳しかった。そうした力が集結して、より強固になっていったチームでしたね。

── 今でこそパ・リーグの人気は高いですが、当時はセ・リーグ全盛でしたからね。

 当時は毎晩のように巨人戦の地上波中継があったのに、パ・リーグはほとんどありませんでした。パ・リーグの主力たちは、セ・リーグに対するコンプレックスやハングリーな思いを胸に抱いてプレーしていました。

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