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山崎賢人 インタビュー前編

【忘れられない景色】

 山崎賢人(長崎・111期)には忘れられない光景がある。それは2024年10月の世界選手権でアルカンシェル(※)を獲得し、表彰台に上った時に見た景色だ。
※自転車競技の世界選手権で優勝者に贈られる虹色のジャージ

「周りを見たら、スタッフの方々も含めて、ナショナルチームのほぼ全員がバーッと並んで、すごく喜んでくれました。

そのことが、自分がメダルを獲ったことよりもうれしくて......」

 ケイリンに出場した山崎は初めて世界一となった。しかもそれは日本人選手として37年ぶりの快挙だった。周囲も驚くその結末に、大会に臨んでいた日本人選手団みんなが「自分のことのように喜んでくれた」と山崎は振り返る。そんなシーンが見られたのも、山崎の人柄が大きく関係している。

 今回の取材時、誰もいなくなった佐世保競輪場の練習場で撮影をしていると、女子選手があいさつをしに現れ、「うーすっ!」と気さくに声をかけて去っていった。その後、男子選手が現れ、撮影している山崎をちゃかすように近くで見守っていた。

 周囲を笑顔にさせる雰囲気を持ち、気さくで穏やか、かつ一風変わった風貌の競輪選手。多くの人にとってそんな山崎は想像の範囲外にいる稀有な存在に映るだろう。

 自身もそのことに薄々気づいている。

「自分が変わっているという自覚がないんですよ。『俺って変わってるかな』と聞くと、100人いたら100人がみんな、『それはわかってるよ』みたいな反応です。自分は普通にしゃべっているだけなのに、笑うタイミングじゃない時に周りが笑っていることがあります。

だから普通の人と感覚がずれているのかもしれないですね」

 競輪開催中も出場選手たちから話しかけられることが多く、自然と人が集まってくることもあるようだ。競輪界ではすでに定着したアフロも、本人は「この髪型をやめたらもう誰だかわからないですもん。だから不安でやめられないです」と笑う。

 ただ、そんな不安は杞憂だ。山崎は今ますます注目されつつある。2025年12月に約6年間在籍したナショナルチームを引退し、今年1月から競輪に専念。2月のGⅠ「全日本選抜競輪」こそ目立った成績は残せなかったものの、最終日は圧倒的な強さで1着入線。3月のGⅡ「ウィナーズカップ」では決勝まで勝ち上がり5着と存在感を示した。

 そして5月1日から始まるGⅠ「第80回日本選手権競輪」での上位進出にも期待がかかる。

 今後、競輪界を代表する選手になりえるほどの実力を有し、かつ独特の感性を持つ山崎。その経歴や競輪選手を目指したきっかけもまた異色のものだった。

「100人中100人が変わった人」と感じる山崎賢人 「大学バレー→競輪ファン→競輪選手→世界一」の特殊な道のり
親しみのある笑顔で誠実に受け答えをする山崎 photo by Manabu Takahashi

【いちファンから競輪選手へ】

 山崎は中学からバレーボールを始め、大学4年まで本格的に取り組んでいた。

高校時代はアタッカーで、最高成績は県ベスト8。まずまずの結果だが、全国レベルと言えるような部活動ではなかった。それでも「バレーボールが好きだった」という山崎は、大学でもバレーボール部に所属した。ただ「175cmくらいだと大学では低いほうになってしまったので、必然的にリベロになった」とポジションチェンジを余儀なくされた。

 この転向にも前向きに取り組み、レギュラーになるために積極的に居残り練習も行なっていた。しかしその座は遠く、コート外からチームメイトの試合を眺める日々。時には「レギュラーでもないのに、何してるんだろう」と思うこともあった。

 それでも自暴自棄になることはなく一心不乱に努力を続けられたのは、自分への厳しさだった。

「自分で4年間やると決めたので、できるところまでやってみようという気持ちでした。僕は自分が決めたことをやらないと気が済まない性格で、我が強いかもしれないです」

 ただただバレーボールに打ち込む毎日だったが、そんな時、先輩に連れられて行ったのが競輪場だった。そこで衝撃を受けることになる。

「迫力がすごかったです。

車輪の音もそうですし、スピード感もすごかった。圧倒されましたね」

 一気にファンとなった山崎は何度も競輪場に足を運ぶようになった。そのなかで特に心を掴まれたのが、深谷知広(静岡・96期)の走り。勇猛果敢に先行する姿に魅了され、車券を握りしめて応援するようになった。山崎はその時、大学3年生。その先の人生に迷い始めていた時期だった。

「バレーボールをやっていても、大学からその先があるわけではなくて、自分がどんな企業に行きたいかもわからなかったし、サラリーマンになる姿もまったく想像できなかったんです。そんな時に深谷さんが先行して金子(貴志/愛知・75期)さんが優勝したKEIRINグランプリを本場(立川競輪場)で見て、もう感動しちゃって......。ここで走りたいなという気持ちが芽生えました」

 いちファンから選手へ。異例ともいえる心境の変化だった。自転車はもともと好きで、中学生の時には学校がひと山超えるほどの遠距離だったこともあり、自転車に乗って毎朝タイムアタックをして通学していた。さらに大学時代には東京都内や近郊は基本的に自転車移動。

もちろん競輪場にも自転車で行っていた。

「競輪が向いているかどうかはわかりませんでしたが、体力的にはどれだけ走っても持つ感じだったので、生かせるかもしれないと思いました。自分の体力を生かした仕事をしたいなと思っていた時だったので、すべてがマッチした感じですね」

 当然、選手になる方法がわからなかったため、自分の故郷・長崎にある佐世保競輪場に電話して、実際に競輪選手に話を聞き、大学卒業後から練習を始めることを決断。そして卒業後、「これ(競輪用自転車)どう乗ればいいんだ?」というほど、ずぶの素人からのスタートだったが、そこから数か月間の練習を経て、1回で競輪学校(現日本競輪選手養成所)の試験に合格した。

「100人中100人が変わった人」と感じる山崎賢人 「大学バレー→競輪ファン→競輪選手→世界一」の特殊な道のり
「競輪ファンの気持ちもわかります」と語る山崎

 異例の心境変化から20代前半でのチャレンジだったが、大学4年間も含め、がむしゃらにバレーボールに打ち込んできた結果が、新たな道を開いたのは間違いないだろう。

インタビュー後編に続く>>

【Profile】
山崎賢人(やまさき・けんと)
1992年12月17日生まれ、長崎県出身。175cm、77kg。中学からバレーボールを始め、大学まで続ける。大学卒業後に競輪学校(現日本競輪選手養成所)に入学し、2017年、24歳でデビュー。14連勝を果たし、翌年にはS級に昇級した。初出場したGⅠオールスター競輪では決勝4着という結果を残す。2019年12月にナショナルチームに加入し、スプリントとケイリンで活躍。

2022年6月のアジア選手権のスプリントで金メダル、2024年2月のアジア選手権のケイリンで金メダルを獲得。2024年10月の世界選手権のケイリンで日本人として37年ぶりにケイリンで金メダルを獲得した。2025年12月にナショナルチームを引退。2026年から競輪に専念している。

「100人中100人が変わった人」と感じる山崎賢人 「大学バレー→競輪ファン→競輪選手→世界一」の特殊な道のり

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