名将たちの甲子園初出場物語
小倉全由(後編)

 宿敵・帝京は1985年春の選抜大会で準優勝を果たした。

「選抜での帝京の試合は全部録画して、何度も繰り返し見ましたね。

とにかく帝京に勝ちたい、その一心でした」

 関東第一を率いていた小倉全由(まさよし)の「打倒・帝京」への執念を物語るエピソードは、枚挙にいとまがない。

【高校野球】0対7からの大逆転、宿敵・帝京撃破、そして涙の初...の画像はこちら >>

【チームを変えた主将のひと言】

 厳しい冬を乗り越え、両校は春季大会の決勝で再び顔を合わせた。帝京はエース・小林昭則を温存し、三塁手の藤波清が先発。それでも関東第一は、2対9とまたしても大敗を喫した。

 その試合後、控室にやってきた校長は、小倉に厳しい言葉を投げかけた。その様子を見ていた主将の寺島一男は、校長に向かって「監督が悪いんじゃない。悪いのは俺たちなんだ」と言い返した。小倉が回想する。

「私は寺島を注意しましたが、内心その気持ちが本当にうれしくてね。これこそがこのチームのカラーですよね」

 決勝で帝京に敗れたものの、関東第一は初めて関東大会出場を決めた。初戦で名将・斉藤一之率いる銚子商(千葉)に敗れたが、小倉にとっても選手たちにとっても大きな経験を積むことができた。

 そして小倉にとってターニングポイントになったのが、6月に行なわれた東北(宮城)との練習試合だった。のちに「ハマの大魔神」としてプロで大活躍する佐々木主浩は腰痛で帯同していなかったが、葛西稔(元阪神)と対戦して勝利。

試合後、名将・竹田利秋は小倉にこう言った。

「小倉くん、このチームは甲子園に出たらベスト8に行けるよ」

 この言葉で小倉の不安は消えた。

「あの言葉がなかったら、自分は『まだまだ足りない』って厳しい練習をやって、選手たちを追い込んで、逆に潰してしまっていたかもしれない。竹田さんの言葉が本当に支えになりました」

 その後の練習試合でも、大会直前の市船橋(千葉)に黒星を喫したが、ほぼ負け知らず。小倉はたしかな手応えを感じていた。

「このチームは"打撃のチーム"と言われていたけど、守備もよかったし、例年以上に足も使えた。バランスのいいチームに成長してくれました」

 関東第一の強さは、関係者の間でも評判になっていた。抽選会に行ったマネージャーが、他校の部員から「おまえたち強いらしいな」と声をかけられたという。

 だが、大会に入ると苦しい戦いが続いた。初戦突破後の2戦目(4回戦)の攻玉社戦は1対0の辛勝。さらに準々決勝では、前年優勝の日大一を相手に、あわやコールド負けという絶体絶命のピンチに陥った。エースナンバーを背負う日大三からの転校生・高井隆行が序盤につかまり、いきなり0対7の劣勢を強いられた。

 そんな悪い流れを変えたのが、主将・寺島の一発だった。打席に向かう途中、相手選手が「強いって聞いていたけど、大したことないな」とつぶやくのを耳にしたという。「誰よりも負けず嫌いな男」と小倉が評する寺島は、「ふざけるな」という思いをこめてバットを振り抜き、反撃の狼煙(のろし)となる本塁打を放った。

「ベンチへ戻るなり、寺島はチームメイトに『おまえら、なめられてるんじゃないぞ!』と叫んだんです」

 小倉は当時を思い出しながら、うれしそうに振り返った。

 寺島の一発をきっかけに関東第一は息を吹き返し、11対8の大逆転勝利を収めた。勢いそのままに準決勝では城西大城西を6回コールドの12対2で圧倒し、いよいよ決勝へ。待ち受けていたのは、最大のライバル・帝京だった。

【打者一巡の猛攻、歓喜の8回】

「甲子園よりも帝京に勝つこと。とにかく、打倒・帝京。それがすべてでした」

 そう当時の心境を語った小倉だったが、決戦を前に迷っていた。

「ミーティングでは『明日は木島(強志)でいくぞ!』と先発を伝えたんですが、『木島で9回まで持つのか?』という不安があったんです。だったら、高井でいけるところまでいって、木島につなごうと決心しました。翌朝、選手たちには謝りました」

 先発完投が全盛の時代。

小倉は大一番であえて"継投"を選択して、勝負に出た。

 そして打者にはこうアドバイスを送った。帝京のエース・小林昭則はこの夏、得意のカーブが抜けて高めに浮くことが多かった。そこで「ボール球でもいいから顔の前にカーブが抜けてきたら、右バッターはレフトスタンドへ向かってホームランをぶち込め」と伝えた。これが功を奏したのか、3番の田辺昭広はそのカーブをレフトスタンドへ運んだ。

 試合は高井から木島への継投が決まり、関東第一が4対3と1点リードのまま終盤へ入った。しかし7回、スクイズを失敗して追加点を奪えなかった。

「あの時は、また勝てないのかと思いました」(小倉)

 だが、勝負を決めたのは8回裏だった。関東第一は、満塁から2番・室井和孝が走者一掃の三塁打を放つと、つづく3番・田辺がタイムリー、4番の山本英俊にも本塁打が飛び出すなど、打者一巡の猛攻で一挙8点を奪った。

 ベンチの選手全員が飛び出し、帝京ベンチに向かってガッツポーズをするなど、喜びを爆発させた。あまりの盛り上がりに、連盟関係者から「やりすぎだ!」とお叱りを受けたほどだった。

 そんなお祭りムードのなか、小倉は「おまえたち、もう1回しっかり守ってこい、高校野球は何があるかわからないから」と必死に冷静を装い、選手たちを送り出した。

 そして最終回、2点を許したが12対5で勝利。宿敵・帝京を下して、ついに初めてとなる甲子園出場を決めた。小倉がしみじみと語る。

「あの9回の守備は本当に長かったですね。みんな甲子園に出ることよりも、帝京を倒すことに執念を燃やしていました。それを果たせたことがうれしかった」

 スタンドにあいさつに行くと、みんなが泣いていた。

「どのチームも優勝するとうれし涙を流しますが、あの時の涙はすごかったですね」

 学校関係者も地元・江戸川区の人たちもみんなが泣いていた。小倉率いる関東第一は、こうして創立60周年という節目の年に甲子園初出場という偉業を成し遂げたのだった。

【初の甲子園でベスト8進出】

 翌朝の新聞が待ち遠しかった小倉は、夜明け前から寮の玄関で朝刊が届くのを待っていた。そこへひとりの1年生が素振りをしにやって来た。2年後の選抜で、主将としてチームを準優勝へ導くことになる田村直樹である。その時、田村は小倉にこう言ったという。

「監督、自分は悔しいんです。

先輩たちが優勝したことはうれしいですけど、初出場での胴上げは、自分たちがやりたかった」

 後日、この話を田村に伝えると、「1年生だった自分との会話まで覚えていてくれているんですね」と驚いていた。40年以上が過ぎた今でも、部員との何気ないやり取りや当時の練習風景を鮮明に覚えている。その記憶力のたしかさと、一人ひとりの選手を大切にする姿勢こそ、多くの教え子たちから卒業後も慕われ続ける小倉の魅力なのだ。

 新聞には、<関東一 泣いた 泣いた>の見出しが躍っていた。同じ日に久しぶりの甲子園出場を決めた銚子商の斉藤一之監督と並んで掲載されたことも、小倉にとってはうれしかったという。

 甲子園へ出発する日は、新小岩駅で盛大な祝勝会が開かれた。

「江戸川区長も先頭に立って応援してくれましたし、商店街の皆さんの声援もうれしかったですね。下町の温かさを実感しました」

 甲子園では、「いつ負けたっていいんだ。思いきってやれ」と選手たちを送り出した。その言葉どおり、関東第一は強打を武器に花園(京都)との初戦を突破すると、國學院栃木、日立一(茨城)を次々と撃破。準々決勝で東海大甲府(山梨)に逆転負けを喫したものの、堂々のベスト8入りを果たした。

 寺島や塩田らは、この甲子園をきっかけに東海大甲府や國學院栃木の選手たちと親交を深め、40年以上が経った今も交流が続いているという。

準々決勝の9回、逆転タイムリーを放った東海大甲府の小板橋則之はこう語る。

「小倉監督と寺島たちを見ていて、本当にうらやましかったんです。甲子園に初出場したチームの監督と選手って、こんなに強い絆で結ばれるものなんだなって......」

【前田さんに育ててもらった】

 小倉は当時を振り返り、「塩田がこのチームの副主将だったことも大きかった」と語る。

 塩田は高校進学の際、一度は別の高校への進学を希望していた。しかし、縁があって江東ライオンズ時代のチームメイトとともに、地元・関東第一へ進学した。

「関東第一に進んだからこそ、人生の師と巡り会えました。小倉監督に出会えたことで、今の自分があります。監督の教えがあったから、長く野球を続けることもできました」

 塩田はそう語り、小倉への感謝の思いを口にした。

【高校野球】0対7からの大逆転、宿敵・帝京撃破、そして涙の初甲子園...小倉全由と「下町の暴れん坊」が起こした夏の奇跡
1997年から母校の指揮を執り2度の全国制覇を達成した小倉全由氏 photo by Sportiva
 寺島は卒業後、ふとした時に「あの頃、監督さんはまだ28歳だったんだよな」と思い返すことがあるという。主将になってからは、折に触れて「寺島、これどう思う?」と意見を求められた。いつも選手のことを第一に考え、真正面から向き合ってくれた。その姿勢は、今も寺島の胸に深く刻まれている。

「監督さんと出会えて、本当によかったです」

 寺島は、感謝の思いをかみしめるようにそう振り返った。

 小倉に「5年間は長かったですか?」と尋ねると、「あっという間でしたね」と返ってきた。

「3年目に初めて決勝まで進んで負けた時、自宅で『俺は一生、甲子園に行けない監督なのかな』と、泣きながら妻に弱音を吐いたことがありました」

 すると妻は、「初めて行った決勝で負けたくらいで何を言ってるの!」と叱咤激励してくれた。その支えには、今も心から感謝しているという。

 そして、小倉はこう続けた。

「自分は帝京の前田さんに育ててもらったと思っています」

 打倒・帝京という大きな目標があり、前田三夫という偉大な背中を追い続けたからこそ、就任5年目で甲子園初出場をつかむことができた。

「初出場が一番ですね。絶対に忘れない。『俺が』じゃなくて、『こいつらと戦ったんだ』っていう気持ちです」

 就任5年目、28歳の青年監督と「下町の暴れん坊」と呼ばれた選手たちがつかんだ甲子園初出場。その栄光は、勝利の数やベスト8という結果以上に、ともに泣き、ともに笑い、ともに宿敵へ挑み続けた仲間との日々として、小倉の胸に今も鮮やかに刻まれている。

(文中敬称略)

新田光●文 Hikaru Nitta

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