光が強ければ強いほど、影は濃くなる。テレビの中で笑いを披露する人気芸人の後ろには、出番を待つ無名の芸人がいる。
明石家さんま、島田紳助に憧れる子どもだった
お笑い芸人の実力を、アスリートのようにデータで表すのは難しい。野球選手であれば、体の大きさ、ストレートのスピードや防御率、打率など参考になるものがある。お笑い芸人の面白さや将来性を測る基準は、あってないようなものだ。
スポーツ界には、オリンピックに出場するような選手を育てるカリキュラムがある(もちろん、誰もがうまくいくわけでない)。10代が出場する全国大会もあるし、プロ野球チームがアカデミーを組織して有望選手を囲い込む。
しかし、芸人の育成法は確立されているとは言いがたい。だから、多くの芸人志望者は養成所を目指すのだ。お笑いで身を立てようと覚悟を決めた者たちが切磋琢磨することで、一流の芸人に育っていく。
小学2年生のときに「お笑い芸人になる」と決めた中北朋宏はその道を目指した。
中北は言う。
「給食の時間に、友だちを笑わせることを生きがいにしているような子どもでした。学校の行き帰り、どうすれば牛乳を口からふき出させられるかを真剣に考えていましたね」
インタビューに答える中北朋宏
しかし、地元の三重県伊勢市には中北のことを理解してくれる仲間はいなかった。10代半ばになると、ひとりで人気芸人たちのネタを研究するようになった。
「みんなが浜崎あゆみの曲をMDに入れて聞くように、僕はお笑い芸人のネタを聞きながら通学していました。
中川家さんの漫才を文字に書き起こして構造を研究したり、ナインティナインさんのラジオをずっと聞いていたり。ひとりであれこれ考える毎日でした。もちろん、学校ではものすごく浮いていました」
NSCを3カ月でやめて浅井企画へ
地元の大学に進学したものの、「お笑い芸人になる」という思いは変わらず。中退して、吉本興業が運営するNSCに入学を果たした。
「大阪NSC29期で、同期には見取り図や金属バットがいました。でも、僕は3カ月ぐらいでやめたんです。性格的にすごく尖っていたので。
養成所を出ても、みんながみんな芸人になれるわけではない。オーディションを通過しただけで所属できる事務所のほうがいいいんじゃないかと戦略的に考えました。養成所でいくら勉強しても、競合が多すぎるんで」
2006年、関根勤、小堺一機、キャイ~ンなど、テレビで活躍するタレントが多く所属する浅井企画のオーディションを受けた。中北を中心としたトリオの名前は「惑星NO.3」。
2006年に結成したトリオ「惑星NO.3」。右が中北 写真提供/中北朋宏
「オーディションを通過して、浅井企画のホームページに名前とプロフィールが載ったときにはグッとくるものがありました。その頃、若手には、流れ星☆、どぶろっくがいました。
僕たちも一応、事務所に所属するお笑い芸人になりましたが、お笑いの仕事はほとんどない。たまに開催されるライブと、それに向けたネタ合わせ、アルバイト、先輩に誘われて行く合コンの4つでスケジュールは埋まっていました」
NSCでの競争を避けて東京に出て芸人になるという計画は実現したものの、その先の道筋は見えなかった。
「たまたま出会った人たちとトリオを組んだのですが、目標は3人ともバラバラでした。僕は30歳までに売れる! お笑いで食えるようになれなければやめようと決めていました。
ほかのふたりがどうだったのかはわかりません。僕自身も、事務所に所属できたことで満足した部分があったのかもしれない。賞を獲って売れるというイメージを3人で共有できていなかったように思います」
相方ふたりから「俺たちだけでやりたい」
生活費のほとんどはアルバイトで稼ぐ。本業の収入は月に数万円だった。
「ネタが認められる人もいれば、キャラクターやギャグで上がっていく人もいる。僕は、どういう形でもいいから売れたいと思っていました。
3人でいろいろな話をしましたが、ほかのふたりはお笑いに関してそれほど熱心ではなかった。ひとりだけガムシャラで、僕がネタを考え、ふたりに演技指導をする形だったんですが、厳しくやりすぎたんでしょうね。
このままじゃいけないと思い始めたのが2、3年目。5年目にはもうマンネリ化していました。3人の関係が険悪になって、ケンカが増えていきました。『キング・オブ・コント』に出ても2回戦で敗退。このまま続けても……とみんな、思っていたはずです」
ある日、ふたりから「俺たちだけでやりたい」と告げられた。
「僕は彼らの2歳上で、当時26歳。ここから30歳までにどうやって売れるかを考えましたが、ゼロからスタートしてできるかと思ったときに『きっぱりとやめよう』と決断しました。
自分なりに6年間積み上げてきたものがすべて崩れたわけですから、悲壮感しかなかったですね」
中北はこのとき、大きなターニングポイントを迎えていた。
「うちの父親が公務員で、仕事が終わったら10分後には帰宅するような毎日を送っていました。子どもの頃は、『夢がないからそんな働き方をするんやろう』と思っていました。
でも、芸人で金を稼ぐことができなかった僕は、社会人として働くのは当たり前、ちゃんと就職しようと考えました。いくら夢を持っていても、食えなければ。だから、勤め人になることに迷いはありませんでした。芸人をやめて父親のすごさが初めてわかりました」
「あなたの経歴で紹介できる会社はありません」からの奮起
しかし、大学を中退して6年間芸人を続けた中北は就職活動などしたことがない。履歴書に記す経歴も職歴もなかった。
「僕には30回以上も転職したという変わった兄がいて、どうすればいいかを相談しながら就職活動をしました。仕事が決まるまでは苦痛でしかなくて、『本当は就職したくない』と言いながら、職探しをしました」
中北が目指したのはコンサルタント会社への就職だった。
「コンサルという言葉がカッコいいと思ったんですよ。人事系のコンサル会社を探して、面接を受けました。転職エージェント会社の人に『あなたの経歴で紹介できるところはありません』と半笑いで言われました。たしかにその通りなんだけど、どうして人生をあきらめさせるようなことを言うんだろうと思いましたね。
何社か受けるうちに、コンサルタント会社の役員が僕を評価してくれて、就職できることになりました。6年間も芸人として活動して、それをあきらめたにもかかわらず、新しいところで頑張ろうという気持ちを買ってくれたんだと思います」
会社員時代の中北(本人写真提供)
しかし、配属された営業の仕事で成果を残すことはできず、営業マンのサポート役に回されることになった。
「営業事務として、見積もりをつくったり、資料を集めたり。そのときには、そういう異動を決めた人を許さない、絶対に見返してやるという思いがありました」
中北はサポート役に徹しながら、静かに爪を研いでいた。
「組織を可視化するツールが開発されたんですけど、営業の人たちはこの商品を売ろうとしなかった。みんなは普段の業務で忙しくて、新しい商品を勉強する余裕がなかったようです。僕には時間があったし、まわりを見返すためには勉強せざるを得ない環境にあった。
だから『僕にやらせてくれませんか』と言って、すべてを任せてもらいました。
そこから中北の快進撃が続く。
「内定者育成から管理職育成まで、ソリューション企画提案に幅広く携わり、最終的には営業マンを教育するトレーニングマネージャーになりました。
就職してすぐにプライドをへし折られましたが、挫折だとは思いませんでした。そうですね、1ミリも。結果さえ出せばいいんだという割り切りがありましたから」
起業して芸人のセカンドキャリアを支援
2018年に「株式会社 俺」を設立。“夢諦めたけど人生諦めていない人のために”をコンセプトに、人材紹介事業やお笑い芸人からの転職支援「芸人ネクスト」などを展開している。
「芸人時代は人のマネをしてはいけないと言われました。二番煎じになりますから。でも、ビジネスの世界では、いいものをとんどん取り入れて成果を出したら褒められる。ビジネスの手法はいくらでもあります」
「芸人ネクスト」は中北の経験なくして生まれなかった仕事だろう。
「ネタを書く・書かない、ツッコミ・ボケ、明るい、知的など8タイプに分けて、その人に合った仕事を紹介するようにしています。この人だったら、エンジニアがいいとか、接客業がいいとわかる。
一般のサラリーマンと比べれば年収が低いので、事業としてはあまり儲かりません。ただ、自分が就職活動で経験した嫌な思いはしてほしくない、その思いで続けています。上場企業に転職して、年収が20倍になった人はたくさんいます」
「芸人ネクスト」などの事業について説明する中北
中北が芸人を引退してから10年以上が経った。もしできるのなら、あのときの自分にどんな言葉をかけるだろうか。
「お金をもらえることに安心してはいけない。『ずっと変わらず努力しましょう』と言うでしょうね。特別な才能がないことは自分が一番よくわかっています。だから努力しかない。
父親は書道や空手を長く続けていて、師範もつとめていました。地道に努力し続けるという資質は受け継いでいるのかもしれません。これと決めたら、ひたすらやり続ける」
自らが起業したことによって、中北はさらには大きな夢を持つようになった。
「50歳ぐらいまでに実現したいのは、自分の国をつくること。僕は王様になりたいんですよ。芸人のときよりも欲求が強くなってきていて、どこまでも上に行きたいと思っています。今の目標は王様になることです!」
現在は芸人のセカンドキャリアをサポートしている
取材・文/元永知宏
編集・撮影/一ノ瀬 伸