「バカヤロー」で大スターになった美貌の青年・美輪明宏…マスコミのバッシング、理解を得られなかった「シスターボーイ」が音楽界に叩きつけた挑戦
「バカヤロー」で大スターになった美貌の青年・美輪明宏…マスコミのバッシング、理解を得られなかった「シスターボーイ」が音楽界に叩きつけた挑戦

1935年5月15日、長崎県に生まれた美輪明宏。今では声優、演出家、作家などいくつもの顔を持つ、誰もが知る有名人だが、スターになるまでの道のりは決して順風満帆ではなかった。

日本におけるシンガーソングライターの祖となった美輪さんの逸話をお届けする。

三島由紀夫、遠藤周作が見に通った美貌の青年・美輪明宏

敗戦後の復興期にあった1951年、東京・銀座に開店したデラックス・キャバレーの『銀巴里』は、当時としては眩いほどに豪華な内装のダンスホールだった。

1955年から昼はシャンソン喫茶としても営業するようになった『銀巴里』で、一人の美貌の青年が専属歌手として歌うようになった。まだ10代だった青年はこの頃は本名の「丸山臣吾」を名乗り、続いて「丸山明宏」となった。今の「美輪明宏」である。

ユニセックスなファッションを身にまとった丸山青年は、まもなく店で最も人気を集める存在になった。シャンソンのファンばかりでなく、アンテナ感度の鋭い若者をはじめ、人気ジャズミュージシャンの中村八大、有名作家の三島由紀夫、吉行淳之介、遠藤周作、俳優の仲代達矢や西村晃などが通って来た。

やがて男でもなく女でもなく、妖しいまでの魅力を振りまきながら歌う丸山明宏は、創刊ラッシュが続いた週刊誌のコラムや新聞記事にも取り上げられた。「シスターボーイ」という新語とともにマスコミを賑わせて、スターになっていくのは1957年の年明けからである。三島由紀夫は「天上界の美」と絶賛した。

「バカヤロー」など、口語体の日本語で大ヒットしたデビュー曲

丸山明宏はシャンソンからエルヴィス・プレスリーまで歌っていたが、人気に火がついてヒットしたのは、港町の娼婦を歌った『メケ・メケ』だ。

長崎から上京して国立音大付属高校に入った丸山明宏は、わずか二学期で退学。同性愛者の集まる銀座の喫茶店やクラブでアルバイトしながら、シャンソンを歌い始めた異端児だった。

自らの手で日本語に訳して歌詞を付けた『メケ・メケ』には、その尋常ではない才能が早くも表出している。

船乗りと港の女に起きた別れの修羅場を題材にしたシャンソンの原詩は、「男が悲しむ娘の姿を知り、海に飛び込んで恋人の元に引き返す」というハッピーエンドの物語だった。

しかし、丸山明宏は大胆な解釈で、アンハッピーエンドに変えて歌っていた。

しかも歌詞からは「バカヤロー」など、日本の”お上品”なシャンソンにはあるまじき言葉が飛び出してきた。

それまでのかしこまった文語調や、品のある詩的な歌詞とは異質な、綺麗事ではないリアリティ、庶民の生活に根ざした口語体の日本語だった。それは笠置シヅ子の『東京ブギウギ』以来の、日本語による斬新なビート感覚だった。

日本にロックンロールが上陸してロカビリーブームが巻き起こり、口語体による日本語の歌詞をビートに乗せた最初のオリジナルソングで、水原弘が歌った『黒い花びら』が誕生するのは1959年の夏。

22歳の丸山明宏のデビューシングル『メケ・メケ』は、それに2年も先行していたのである。

マスコミからバッシング、まったく理解をえられなかった低迷期

ところがスターになったものの、ブームは1年ほどで沈静化してしまう。同性愛者であることを隠さなかったためにバッシングに遭い、その後はマスコミから締め出された状態になった。

『メケ・メケ』で成功する前からの知り合いだった中村八大は、丸山明宏が美貌を看板にして売り出したことに不安を感じたという。

「彼の服装や独特の言行から人々に与えた印象や、彼が意識してとった商品的ポーズは、彼が本来持っている強い音楽への愛情、又心から歌を表現出来るえらばれた歌手だと言う事を、スポイルしてしまったと思うのです。率直に云って私は、もう彼の歌はだめになる……と思いました」

しかし、もう少しで忘れ去られるところだった丸山は、長い低迷期間中に自分の心の底にある音楽を見つめ直していた。そして逆境の中で、「本当の歌を探すため」に自分でテーマを見つけて、作詞作曲するという道を選んでいた。



今でも主要なレパートリーとなっている『うす紫』『金色の星』『ヨイトマケの唄』『ふるさとの空の下』などの作品を、コツコツと書き上げていたのだ。こうした活動は当時の聴衆からも芸能界からもまったく理解を得られなかった。

6年の雌伏期間を経た丸山明宏が、数十曲もの作品を携えて中村八大のもとを訪ねたのは、1963年4月のことだ。

日本の音楽史上で「最初のシンガー・ソングライター」が誕生

その頃の中村八大は第1回レコード大賞を獲得した『黒い花びら』(歌/水原弘)や『上を向いて歩こう』(歌/坂本九)などの作品をヒットさせて、作曲家・プロデューサーとして日本の音楽シーンに新風を吹き込んでいた。

中村八大の助力を得た丸山明宏が、総勢80名のオーケストラをバックに21曲を歌ったリサイタルは、1963年11月8日に東京大手町のサンケイ・ホールで開催された。

全作品を自らが書いた楽曲によるコンサートは、これが日本で最初のことだった。日本の音楽史の上で「最初のシンガー・ソングライター」が、その時に誕生したのだ。

作家の三島由紀夫は終演後、舞台裏でこう言ったという。

「君、大成功だよ。君の歌には土の匂いがあった」

歌唱に対する評価が厳しいことで有名だった中村八大が「天才歌手」と呼んだのは、丸山明宏ただ一人だけだった。

こうして長く失意の中にあった青年による、音楽界に叩きつけた挑戦は成功した。

マスコミに同性愛者であることを公言することが、今よりも信じられないほどの非難を浴びた60年前の日本。

世間からはキワモノと見られていた丸山明宏は、このリサイタルを機にシンガー・ソングライターとしての地位を確立した。

さらには俳優、タレント、演出家としても、独自の美意識で確固たる世界観を築き上げた美輪明宏は、様々な人との出会いから生まれた歌や芝居のエッセンスを自らの手で大切に育てながら、次の時代へ遺すことに、今も情熱を注いでいる。

文/佐藤剛 編集/TAP the POP サムネイル画像/左:2013年12月25日発売DVD『美輪明宏ドキュメンタリー~黒蜥蜴を探して~』、右:2021年11月17日発売『ヨイトマケの唄』(ともにKING RECORDSより)

参考・引用文献/美輪明宏『紫の履歴書』

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