
1985年4月、アイドルグループ「おニャン子クラブ」のメンバーとして活動をスタートした国生さゆりが、今年でデビュー40周年を迎えた。女優業やタレント活動に加えて、近年は執筆業にも取り組み、今年1月からは自身初の小説『国守の愛』がマンガ化され、配信されている。
「40年もよくやってこられたなって」
「40年もよくやってこられたなって思います。まじめなトーンになっちゃいますけど(笑)」
これは、「40周年を迎えた今の気持ちは?」との質問に対する答えだ。
1985年におニャン子クラブのメンバーとして華々しくデビューし、翌年にはソロデビューシングル「バレンタイン・キッス」も大ヒット。
その後もドラマ、映画、バラエティ番組と順調に出演を重ねてきた国生だけに、この答えは意外とも思えるものだった。
ジャンルにとらわれず意欲的に芸能活動をしてきた国生。そんな彼女はデビュー当初「スタッフのみなさんに守られていた」と振り返る。
国生の芸能界入りのきっかけは、高校在学中に友人の勧めで一緒に応募した「第3回ミス・セブンティーンコンテスト」(1984年開催)。
当時、広島県に住んでいた彼女は、中国地区の代表として全国大会に出場した。
コンテストには入賞しなかったが、当時行なわれていたテレビ番組『第14回レコード10社対抗 ’85新春オールスター大運動会』(TBS系)に、旧CBS・ソニーの運動会要員として参加することになった。
「中学校から陸上をしていたので、コンテストの応募書類に『県大会出場』に『100mは〇秒』といったことを書いていたんです。
当時のCBS・ソニーはレコード会社のなかでは歴史が浅いほうだったので、ゼッケンにCBSソニーとつけた子が先頭を走れば、宣伝になると考えたらしいです(笑)。
そのとき、たまたま私を担当してくださった方が、『夕やけニャンニャン』のスタッフさんと知り合いで、紹介してくださったんです。なので、陸上部じゃなかったら芸能界に入ってないんですよね」
おニャン子クラブ誕生のきっかけとなる伝説のバラエティ番組『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系)では、国生は番組開始当初のスターティング・メンバーとして参加。当初は、芸能界にいるという感覚がなかったという。
「毎日楽しかったですね、深くも考えてなくて(笑)。私、ずっとスポーツして、朝練・夕練という日々だったので、山口百恵さんが出ていたドラマ『赤いシリーズ』(TBS系)以外はテレビを見ていなかったんですよ。
だから撮影スタジオにいても、テレビに出るっていうことがどういうことなのか、あんまりピンときてなくて。
『夕やけニャンニャン』の何が面白かったかっていうと、とにかく激流のようにコーナーが繋がっていくところ。私はそれ見て、素直に反応してるだけでした」
だが、他のメンバーがソロデビューをしていくなかで、徐々に意識は高まった。
「おニャン子クラブのデビュー曲『セーラー服を脱がさないで』がヒットして、メインの4人がイベントをやろうとしても人が集まりすぎて、イベントが開けないといった状況になったんですよ。その辺から劇的に芸能界というものが分かるようになっていくんです。
そして、どんどん競争心だけが目覚めて。『番組内で自分がメインのコーナーが欲しい』だとか、みんなソロデビューし始めたので、『自分もソロデビューしたいな』だとか。
その頃は、ソロデビューした人たちをがむしゃらに見ていました。デビューできる・できない、メインの位置に立つのと後列に立つの違いはなんなんだろうって。なにかを得たかったし、学びたかったんだと思います」
『バレンタイン・キッス』にもどかしさも
そんなチャンスが、国生にもめぐってきた。1986年2月1日、「国生さゆりwithおニャン子クラブ」名義のシングル『バレンタイン・キッス』でソロデビューを果たしたのだ。
この曲は、今でもバレンタインデーのシーズンになると全国の街中で流れる、国民的なヒットソングとなった。だが、当時はもどかしさも感じていたという。
「ヒットの要因は、秋元康さんが運を持ってらっしゃったからですね。実はB面に入っている曲(『恋はRing Ring Ring』)でデビューすると決まっていたんですけど、『2月はバレンタインデーだから』と秋元さんが急遽、差し替えられたんです。
若い頃の私は、『バレンタイン・キッス』のあとも現在進行形で新しい曲を歌っているし、ドラマにも出ているのに、バレンタインデーになると『バレンタイン・キッス』ですねと言われることに対して、アップデートされないもどかしさやはがゆさはありました。
でも、今は素直に『ありがとうございます』って思います。それに、『バレンタイン・キッス』が毎年かかるようになったのは、私じゃなくて、その時々のアイドルの方たちが2月前後になると歌ってくださるから。
例えば、テニプリ(アニメ『テニスの王子様』)のキャストのみなさんが歌っているので知って、『調べてみたら国生さんの歌だったんですね』という声も聞きます。もう私の曲ではないんですよ」
ソロデビューを果たし、女優業にも取り組み始めた国生は、『夕やけニャンニャン』以外での仕事の厳しさを知ることとなる。
「『夕やけニャンニャン』のスタッフのみなさんからは、宝物みたいに扱われてたんですよ。なんとか育ってってほしい、なんとか順応してほしいと。ケアできることは俺たちがやるんでと、勉強を教えてくださる方もいました。
でも、ソロになると、そんな温室から離れて各テレビ局に顔を出すわけでしょ。そのときに『芸能界ってめっちゃ厳しい』って思ったんです。
要求値っていうのかな、完成度っていうのかな、それを求められるし、全くの1人じゃないですか。震えましたよね」
ソロの仕事で厳しさを感じたという国生だが、1987年3月におニャン子クラブを卒業。本格的に、1人で芸能界を歩み始めることとなる。そして、プライベート面でのできごとも含めて、長く続く葛藤の日々が始まった。
女優とバラエティ…揺れる気持ち
「こういうことを言うと、『お前があの恋愛をしなきゃよかっただけじゃないか』って、みなさんに思われると思うんですけど、最初はものすごくいい環境でスタートさせてもらったのに、私は自分のキャリアを曲げてしまうんですよ。
そうすると、いただける役も狭くなるわけですよ。そして、先細りを感じて、『女優さんとしては無理かもしれない』と思ってバラエティ番組に出始めるんです。
でも、やっぱり『一流の女優になりたいから、バラエティは出ない』と言ったり、でも、バラエティに出ているほうがキャスティングされる率が高いと思って、またバラエティをやらしてもらったり…。
じっとしていればいいのに、そんなふうにその時期、その時期で方向性を変えてしまったんです。そして、そのたびに転ぶんですよ、派手にね(笑)」
一般的な視聴者の目線では、コンスタントにドラマや映画に出演し、また『ウッチャンウリウリ!ナンチャンナリナリ!!』(日本テレビ系)や『ロンドンハーツ』(テレビ朝日系)などで存在感を示してきたように見える。
だが、本人にとっては「悔いの塊だった」。
「『あのとき、あの人の言うことを聞いてればよかった』『あのとき、そっちをなんで選んだの』『あのとき、なんで誰かに相談しなかったの』っていうのがずっとあるんですよ。
アスリートは0.01秒縮めるために、自分を何度も見てフォームを改善したり、新しい練習方法を取り入れたりするじゃないですか。
私も陸上をやってたからかそういう精神構造なので、ずっと自分にダメ出しするんです。今もしてるんです。
選んでしまったのは自分なので、それについてなにか言われたときは、『ほんとに大変申し訳ございませんでした』って言うしかない。
でも、自分のなかでは常に後悔や懺悔があって、パラレルワールドじゃないですけど、なぜこっちを選ばなかったのって思ったりするわけなんです」
そんな国生の救いとなったのは、執筆だった。全世界がコロナ禍に見舞われた2020年から、彼女は小説『国守の愛』を書き始め、小説投稿サイト「小説家になろう」に投稿を始めた。
「私は、プライベートで自分のキャリアを傷つけたっていう、すごい後悔があって。
でも言い訳をさせてもらうと、いろんな経験をしたからこそ小説を書くことができたと感じるんです。『私の人生の中で必要なことだったんだね』って、思えるようになったというか。
なんかね、やっと自分の人生が楽しいもんだったんだなって思えるようになりました」
これまでの経験や感情、そして反省を、自身の言葉で語る国生。後編では、そんな彼女にとって、大きな軸となった執筆への思いと、そこから得たものを聞く。
#2へつづく
取材・文/羽田健治