“ミスタープロ野球長嶋茂雄さんの足跡をスポーツ報知では「ミスターの世界」と題した連載で振り返る。第6回は「4番・長嶋」を巡るエピソードに迫る。

ルーキーだった1958年8月に初めて座った「4番」。現役17年間で計1460試合務め、特に開幕戦では15度も4番を張った。新人時代を除き唯一、開幕4番を外れた5年目の62年には何があったのか。また、王貞治とのON砲の打順の最適解とは―。(取材・湯浅佳典、森口登生)

 1958年8月6日は、プロ野球史の中でもエポックメイキングな日である。敵地での広島戦で、ルーキー・長嶋が、“打撃の神様”川上哲治に代わり、巨人軍第25代4番を襲名したのだ。長嶋はその試合で右翼へ本塁打を放ってみせた。「いや、なんということもないですね。何番を打っても同じですよ」と当時はことさら素っ気ないコメントを残しているが、それは“燃える男”の本音だったのかどうか…。いずれにしろ、「4番・サード」が長嶋の代名詞として定着するのに時間はかからなかった。

 引退までの17年で1460試合も4番を務めた。特に「開幕4番」という栄誉を、歴代2位の15回も担っている。

例外は、3番として迎えたルーキーイヤー。もう1度は、5年目の1962年4月7日の阪神戦だった。川上監督は、長嶋を3番に据え、4番に4年目の王貞治を抜てきした。

 2人とも4タコに終わり、小山正明に完投を許して1―2で敗れた。長嶋が開幕4番を外れる! それはひとつの事件ではあったが、やむを得ない事情があった。翌日付の報知新聞にはさりげなくこんな記述がある。「開幕直前にカゼで二日間寝ていた長嶋は、速い球についていけない」(原文ママ)。新オーダーは指揮官の深謀遠慮ではなく、体調への配慮、あるいは苦慮の産物だった。

 通算352試合目にして初めて4番(第28代)となった王も、うやうやしくその冠を頂戴した、というわけではない。当日のことを「いやあ、僕は覚えてないなあ…」と首をひねる。続けたのは、いかにも求道者らしい理由である。「とにかく試合に出て、とにかく打つことだけを考えていたから。

選手って試合に出るか出ないかが問題で、打順がどうのっていうのはあんまり関係ないんだよね。ましてや長嶋さんがいたから…」

 ただこの試合で生まれた「3番・長嶋―4番・王」の並びは、65年から始まるV9時代へとつながる、重要なオプションとなった。

 ONの両雄をどう並べるか。2人の力を最大限引き出し、どう相手に脅威を与えるか。ご存じのように、基本線は「3番・王―4番・長嶋」である。スタメンで初めて「ON」の並びが実現したのは、1960年4月26日の大洋戦(金沢)で3、4番を組んだとき。61年の終わりまで「4番・長嶋―5番・王」というケースは45試合あったものの、「3番―4番」が「NO」になったのは、62年の開幕戦が最初だった。

 62年は、王が7月に一本足打法へと変ぼうして才能を完全に開花させている。川上監督は常勝を維持する中で、「ON」と「NO」を巧みに使い分けた。チームのカンフル剤としての意味を持たせ、打点王のようなタイトル争いでも偏りがないように気を使った。

 王が述懐する。「川上さんが、ちょっと打線の調子が悪い時とか、ON2人の調子がイマイチという時なんかには、気分転換も考えて、打順を入れ替えたりはしていた」。

しかし、長嶋の受け止め方はちょっと違っていた。報知新聞の宇佐美徹也が著した「ON記録の世界」には、Nのこんなコメントが残る。「打順入れ替えは確かに効果があったと思う。(中略)三番にされれば何をッと反発するし、四番に戻されればよーしと気合いが入る」(原文ママ)

 3、4番に「ON」が座ったのは1063試合で、打率3割2厘、583本塁打、1646打点。「NO」は502試合で3割6厘、254本塁打、680打点。甲乙つけがたい数字が並ぶ。V9時代のエース・堀内恒夫は証言する。「投手からすればONの打順が嫌だね。長嶋さんの勝負強さが、4番にいる方がいっそう引き立つイメージがあるし、後ろにNがいると王さんと勝負をせざるを得なくなるからね。オレは2人と対戦したことがないから、まあラッキーだったよな」

 ちなみに「ON記録の世界」の中では、「監督ならONとNOどちらを採用するか、という質問を長嶋自身に投げかけている。

 「ためらうことなくO→Nです」とミスターは言い切っている。「ワンちゃんが前で打てば打つほど僕には闘志がわき起こってくる」(原文ママ)

 長嶋は62年を最後に、74年の引退まで開幕4番だけは譲らなかった。

(敬称略)

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