NHKスペシャル(NHK総合)では、2011年より「未解決事件」と題して、社会に大きな衝撃を与えながら、いまなお多くの謎を残す事件を再検証してきた。今日・明日と2夜にわたり放送される同シリーズのfile06では、昭和の終わりから平成の初めにかけて起こった「赤報隊事件」がとりあげられる。
今夜7時半から放送の第1夜では草なぎ剛主演の実録ドラマ、明晩9時放送の第2夜ではドキュメンタリーという形で事件の真相に迫るという。
草なぎ剛「赤報隊事件」テロにあうメディアの側にも非があるのか。同僚を殺された記者たちの執念の実録今夜
2002年に朝日新聞阪神支局襲撃事件が時効を迎えたのを機に出版された『新聞社襲撃――テロリズムと対峙した15年』(朝日新聞社116号事件取材班編、岩波書店)。今回のNHKスペシャル「未解決事件」では、事件解明に奔走した朝日新聞の特命取材班を描く実録ドラマとあわせ、NHKの独自取材によるドキュメンタリーが放送される

朝日新聞から首相にもおよんだ攻撃


この事件でまず標的となったのは、朝日新聞社である。いまから31年前の1987年5月3日、憲法記念日のこの日午後8時すぎ、朝日新聞阪神支局(兵庫県西宮市)に目出し帽をかぶった男が侵入し、持っていた散弾銃で記者たちを襲った。このとき支局2階の編集室には3人の記者がおり、男はまず犬飼兵衛記者(当時42歳)を狙撃し、重傷を負わせる。このあと、さらに2発目を小尻知博記者(当時29歳)に向けて放った。残ったもう一人の記者(当時25歳)にも銃口を向けたが、男は一言も発せず、その場を立ち去る。小尻記者は病院に搬送されたものの、翌日午前1時10分、失血死した。
別の病院に運ばれた犬飼記者も、一命をとりとめたとはいえ、200個以上の散弾粒を浴び、右手の小指と薬指を失った。散弾粒の一つは心臓の2ミリ手前で止まっていたという。

その4ヵ月後、1987年9月には朝日新聞名古屋本社の社員寮にやはり散弾銃を持った男が侵入し、無人の食堂のテレビなどに発射した。その後、この年1月にも朝日東京本社の建物に向けて散弾銃が発砲されていたことも判明する。翌88年には、朝日新聞静岡支局爆破未遂(3月)、さらに当時の竹下登首相と中曽根康弘前首相への脅迫状送付(3月。竹下への脅迫は97年に発覚)、リクルートの江副浩正元会長宅襲撃(8月)と事件があいつぎ、90年5月の愛知韓国人会館放火事件を最後に、犯人は動きを止めた。


これら事件のたびに「赤報隊」を名乗る者から犯行声明が送りつけられ、そこには「この日本を否定するものは許さない」「反日分子には極刑あるのみ」などといった、朝日新聞を敵視し、戦後体制を否定する文章が書き連ねられていた。

警察庁は一連の朝日新聞襲撃事件を「広域重要指定116号事件」として捜査を進めた(竹下・中曽根元首相への脅迫は「参考事件」、愛知韓国人会館放火事件は「類似事件」の位置づけ)。捜査当局は「同一人物・グループによる一連の事件」と断定したものの、容疑者逮捕までにはいたらず、阪神支局襲撃事件は15年後の2002年5月3日に時効を迎え、116号に指定されたほかの事件も03年3月11日までにすべて時効となる。なお、事件で負傷した犬飼記者は、その後も2007年に退職するまで各地の支局で取材活動を続けたが、去る1月16日に73歳で亡くなった。

葛藤と覚悟を抱きながらの取材


今夜の実録ドラマでは、朝日新聞の記者たちが阪神支局襲撃事件の直後より結成した「専従取材班」(当初は「特命取材班」と呼ばれた)の動向を中心に描かれる。特命班は、警察の捜査とは別に、独自に犯人捜しと事件の真相解明をめざした。草なぎ剛が演じるのは、この特命班に参加した一人である樋田毅記者だ。


樋田記者は、阪神支局襲撃事件の時効直後に刊行された『新聞社襲撃――テロリズムと対峙した15年』(朝日新聞社116号事件取材班編、岩波書店)という本に、「取材班の一員として――見えない「赤報隊」を追って」と題する手記を寄せている。それによれば、特命班は、社会部の担当デスクから《原稿は書かないでいい。犯人を捜せ》と指示を受けていたという。

特命班の記者たちは、手がかりを得るため、支局周辺の聞き込み調査を手始めに、ときには不審人物を尾行したり、不審な団体事務所の出入りをカメラで監視したりすることもあった。1987年7月までに取材報告書はB5判ファイルで60冊を超える。樋田はその後、静岡支局で爆破未遂事件が起こったときにもすぐさま駆けつけ、取材にあたった。


特命班は結成されて約2年間、ほとんど記事を書くことなく、犯人を追う取材に専念してきた。記事にしなかったのは、事件や犯人像の見極めがなかなかつかず、慎重を期したためだが、記者たちはしだいに葛藤も抱くようになる。樋田は手記のなかで《「きのうもきょうも 記事書かず 書くは報告書ばかりなり」。「書かない記者」のつらさを伝えるこんなざれ歌の落書きを見つけた時のショックを今も忘れられない》と書いている。年を追うごとに、社内でも「記事も書かないで、仕事をしている気になるな」「いつまで取材班を置くのか」などと風当たりも強くなった。樋田も一旦は取材班を離れるが、その後も同僚・後輩たちが交代して取材を続行する。
専従取材班は1996年と2000年に再結成され、樋田はそれぞれのキャップを務めた。

記事を書かないことへの葛藤だけでなく、記者たちは、自分もいつ襲われるかわからないという覚悟も抱きながら取材を続けた。不審人物への取材に向かう日の朝、身重の妻に「きょうは無事に帰れないかもしれない」と告げた記者もいたという。

記者倫理の遵守から生じた誤解


記者たちは独自に取材を進めながらも、事件の当事者・被害者という立場上、当然ながら警察の捜査にも協力している。

阪神支局襲撃事件後、朝日新聞側は、当時抱えていた報道をめぐるさまざまなトラブルの詳細を捜査当局に伝え、当時の阪神支局出稿の全記事を提出した。だが、一方で、小尻記者の残した取材ノート90冊の任意提出は、取材源の秘匿という記者倫理の基本を遵守して拒否した。それでも捜査本部に対しては「ノートや手帳は見せないが、中身は個人情報に配慮しながら口頭ですべて説明する」という方法で協力し、先方の理解も得られたという(関西地区マスコミ倫理懇談会50周年記念誌企画委員会編著『阪神大震災・グリコ森永vsジャーナリスト――権力と市民の間で何をしたか』日本評論社)。


事件について、当初は、殺された小尻記者を含む阪神支局員の書いた記事や取材活動が原因となったとも考えられた。だが、その後、各地の朝日新聞の施設で事件があいつぐにしたがい、犯人の狙いは朝日新聞そのものにあることがあきらかとなっていく。それにもかかわらず、小尻記者個人がからんだ事件という見立てはなかなか消えなかった。ある雑誌には、小尻記者がある大型経済事件を追ううち、“虎の尾”を踏んだとする記事が連載され、のちには単行本化もされた。しかし、当の記者のノートや手帳には、そうした事実を示す内容は皆無であった。

くだんの記事は、公安警察の報告書に何ら検証もなく掲載された情報をもとに、朝日新聞が手帳を見せないことを逆手にとって書かれた「創作」であった。阪神支局襲撃事件後、神戸支局から取材に参加した狩野誠一記者は、こうした「創作」に対して《事件の本質をゆがめ、捜査の混乱にもつながった。偽情報に乗った出版社の罪深さは計り知れない》と厳しく批判している(『阪神大震災・グリコ森永vsジャーナリスト』)。

いま同様の事件が起きたら……


朝日新聞の記者たちが、これほどまでに事件の真相解明のため心血を注いだのは、単に同僚が殺されたことへの怒りからだけではない。そこには、言論の自由が暴力によって奪われることへの危機感があった。それゆえ、彼らはほかの新聞社をはじめ各メディア、また市民ともスクラムを組んで立ち向かうことができた。死亡した小尻記者と新人時代、同じ赴任地で一緒に県警を回った仲だという読売新聞のある記者は、後年、《小尻を美化する報道もあったが、あいつは英雄でも、特ダネ記者でもない。僕らと同じ、ささやかな夢を持った不器用な記者が支局で殺された。そこに、この事件の本当の怖さがある》と語っている(『新聞社襲撃』)。

いまや赤報隊が犯行声明で掲げたような主張は、ネットをはじめあちこちで見られ、珍しいものではなくなった。そのなかで頻繁に使われる「反日」という言葉は、赤報隊事件以前は右翼もほとんど使わない言葉だったが、赤報隊が蔓延させたとの指摘もある。いま「反日」とを盛んに口にしている人たちが、赤報隊のテロを肯定することは十分ありうるのではないか。

ましてやマスコミへの不信は時代を下るごとに深まっている。文藝春秋の元編集者で作家の半藤一利は2002年の時点で、襲撃事件のあと朝日新聞が持ちこたえられたのは、世論が味方してくれたからとした上で、《同じような事件がいま起きたらと考えると、ぞっとします。報道被害やセンセーショナリズムがひどくなり、国民の間に「マスコミはやりすぎだ」と批判が強まっています。そこにつけ込み政府はメディア規制に乗り出してきた。「テロにあうメディアの側にも非がある」と世論を突き放されたら、もちません》との見方を示した(『新聞社襲撃』)。今回のNHKスペシャルが、赤報隊事件を検証するにあたり、警察ではなく新聞社側の視点を選んだのは、同じマスコミとして立場を省みるという意図もあるはずだ。

赤報隊と同じ主張が各方面に広がり、マスコミ不信がさらに強まったいま、それを背景に似たような事件が起きないか、不安になる。今回の番組が、二度と悲劇を繰り返さないよう、人々の心に刻むものとなることを願わずにはいられない。
(近藤正高)