タイトルと目次だけ見ると、何だか奇をてらったような印象を受ける。ちょっと意地の悪い人なら、お笑いを文学に重ね合わせることで妙な箔づけをしようとしているのではないか、と考えるかもしれない。だが、実際に本文を読んでみると、著者とほぼ同世代のライターとして、やられた! と思わされることが多かった。まさに「その発想はなかったわ」(by.板尾創路)である。

本書において著者は、明治以降の小説(家)と戦後のテレビのお笑い(芸人)とのあいだに、その成り立ち、表現、受容のされ方など多くの共通点を見出し、その理由を丁寧に説明してみせる。具体的にはまず、小説が明治の新興メディアである新聞から生まれたこと、同様にお笑いというジャンルが昭和の新興メディアであるテレビから生まれたという共通点があげられる。さらに興味深いのは、両者とも時代を追うごとに、送り手と受け手の共同体意識が強固に形成されていき、それぞれ「私小説」と「フリートーク」という日本独自ともいうべき表現形態が隆盛をきわめたということだ。

そんな本書の趣旨が、とくにわかりやすく示されているのは第12章の「木村祐一は志賀直哉である!」だろう。この章では、志賀直哉と木村祐一がそれぞれ、私小説とフリートークの一つの頂点をなした存在だというふうに位置づけられている。

彼らが登場する前提には、夏目漱石とダウンタウンの業績があった。漱石は、漢籍など伝統的教養に英語の文法をもとにした口語表現を加えることで、近代小説を完成させる。その晩年の作品『道草』は、彼の死後、自然主義の流れを受けて全盛を迎える私小説を先取りしたものであった。それと似たように、漫才の伝統性にテレビコントの革新をもって、テレビバラエティを完成させ、さらにはフリートーク全盛の時代を用意したのがダウンタウン(とくに松本人志)であった、と著者は見る。