立川流真打の落語家が師・立川談志と自身の修業時代を語る対談。後編です。
前編はコチラ

■真打を賭けて談志と勝負する
───生志さんは、2004年東京・新宿の紀伊國屋サザンシアターで勝負を賭けた「真打挑戦公開LIVE」で、満座のお客さんを前にして師匠に昇進を否定されるという屈辱を味わいました。舞台の上で談志が決を下してくれないまま会場の終了時刻が迫ってくる。やむなく生志さんが自ら昇進辞退を言い出すという。ご著書の『ひとりブタ 談志と生きた二十五年』で山場のひとつとなるエピソードです。

生志 あれはもう本当につらかったですよ。絶対今日はこの人は「うん」と言わないと判った。いや、なし崩しで決めさせても「俺は認めてねえ」と後で言い出しかねない。だからよそうと思ったんです。とりあえず会場の延長料金を払うのだけはいやだ(笑)。自分から言わないとけりがつかないから、「次、がんばります」と言ったんです。そしたら「そうか?」って速かったですね。僕が言うのを待ってたんですよね。


───そのときの師匠の心中をどう分析されますか?

生志 お前が俺に歯向かってきた事実は、これくらいじゃ帳消しにはならないぞ、っていうことなんじゃないですか。はっきり言えば僕に対するいじめでしょう。

───感情論なんですね。

生志 そう思っちゃうとまた歯向かうしかなくなっちゃうから、なるべく考えないようにしました。とにかく師匠が踊りを見せに来いと言ってるんだから、稽古をして見せに行こう、と。このひと(談慶)は師匠に向けて一点突破をしようとした。僕はそうじゃなくて談志の言葉より歌や踊りのお師匠さんたちが教えてくれることを大事にしようと考えたんです。その時点で、談志に歌舞音曲で認められようという考えは消えました。それよか、先生たちに「よくなった」って言われたほうが嬉しい。それでも二つ目のままだとしたら、そんなの関係ない。他の真打ちの人を見ても俺の方がうまいっていう自信もあったしね。

談慶 師匠は自分に対して反発したことを絶対忘れないひとなんです。
男女で分ければ、師匠の考え方は女。「あいつは俺のことけむたがってるから、こっちいくもん」みたいな人だった。二つ目になったちょうどそのときに僕は子供が生まれた。なんとかするにはって思ったときに、たまたま追い風が吹いて、師匠のおかみさんまでがこっちを気にしてくださるような空気になってきた。「なんとしなきゃ」ってかみさんにも言われて、腹を括ったんです。兄さんにご挨拶抜きにして申し訳なかったんですけど、先に真打ちに挑戦させていただいた形になったんですよ。

───ご著書『大事なことはすべて立川談志【ししょう】に教わった』は、談慶さんが師匠の基準をいかにクリアしていくかということが中心で、一種のハウツー本のようにも読める内容です。生志さんは『ひとりブタ』の中で談慶さん、談笑さんという二人の弟弟子が兄弟子に断りを入れずに先に真打ちに挑戦したことについて触れてますね。読んでいてドキッとしました。

生志 落語家の修行ってそういう礼儀みたいなものも含めたものが修業なんです。師匠が弟子を真打ちにするのは、その修業ができました、ってことですよね。でも先輩後輩の間の決まりごとさえできない人間を真打ちにするとは、談志の目が節穴なのか、と思っちゃったんですよ。
「本当なら談志が一番そういうことにうるさいはずじゃないか」と。本にあえて書いたのは、それを言いたかったのもあったんですけどね。

───どこかの段階でお2人とも弟子として甘えるだけ、というのを止めて自立されたんだと思います。それは人間としての立川談志が見えてきたということもあるんでしょうか。

生志 そうですね。この人に人生を預けてはえらい目に遭うぞ、と。芸は尊敬しますけど、人間としては全幅の信頼を預けるわけにはいかない。最近になって談四楼(現・真打。1970年入門)師匠から直接聞いたんですけど、「生志はそろそろ真打ちにしてもいいんじゃないですか」って兄弟子たちが言うと、談志は「あいつ見せにくるたびによくなってる。それはつまりな、このままやってるともっとよくなるんだよ。そこまでレベルを上げてやらないとあいつに失礼だ」と(笑)。なんて意地悪な人なんだと思いましたね。
そんな風に僕に関しては「基準を超えればいい」と言いながら、基準がまったくなかったんです。正直、もう真打ちにならなくてもいいとさえ思ってました。むしろそれでお客さんから「なんで真打ちにしないの」と言われて談志が困ればいいと。

談慶 やっぱり女なんですよ。気に入らなければすぐにあっち向く。

生志 さきに彼(談慶)が真打ちになると決まったら師匠から電話がかかってきて「先に真打ちにしたがアレは違うから。おまえわかってるな?」って言ってきた。何が違うんだよ! って思いつつも「はい、判ります」と言ったら「わかってンならいんだ」って。言い訳なんですよ。だからおまえは気にすんな、みたいなね。そういうところがチャーミングといえばチャーミング、気が弱いっちゃ弱い。さらに言えば芸人らしいというかね。
自分がピンチにならないようにちゃんと一手をうつ危機管理能力みたいなものがある。こざかしいっちゃこざかしい(笑)。

談慶 師匠の気持ちはわかるんですよ。私の真打ち昇進披露公演で兄さんも来てくださった。その打ち上げの師匠はしきりに気を遣っていたんです。

生志 そのお披露目に行ったのも、談慶のお祝いの意味はもちろんあるんだけど、師匠がどんな顔するのかなと思ったというのもありましたよ。僕も意地が悪いね(笑)。

談慶 「あいつ(生志)来てるけど仲良くな!」みたいなことをいうんですよ師匠が(笑)。でも「あいつ、なんで来てんだ」みたいなニュアンスでした。

生志 それは作戦が成功したんだな(笑)。逃げずに、この人を煩わせようというか、追いつめようと覚悟を決めてやってましたね。へいこらしてるだけだと潰されてしまうから。
でもそれは師匠のありがたい教えなんですよ。落語家として一人で生きていくならそういう気持ちをもってないと。そのぐらいの根性というか気概をもってないと続けられないですよね。そういう意味ではいい師匠ですよね。

■真打昇進、そして最後の親孝行
───お二人とも真打ちになられた後は披露目興行をされてますよね。特に生志さんは長いロードをされました。そのときは、師匠への親孝行という気持ちもあったんですか?

生志 師匠を安心させるっていうのと、「こんなにやれるやつだったのか」と思わせるというのと両方です。ちゃんとギャラも払ったし(笑)。

談慶 この会場なら客何人集めていくらになる、とか師匠は全部計算してますからね。

───真打ちになられてからの思いでは変わった部分はありますか?

談慶 談志というのは真打になった弟子からすれば、一度寝た女なんです。「一度寝たからって愛人づらするんじゃないわよ」っていうのが師匠から真打ちに対するメッセージ(笑)。「私はあなたを拒否してないから惚れさせ続けなさいよ」っていうからずっと喜ばせ続けて、こっちを向かせなきゃいけない。それにはやっぱり「満座の会に呼んで、どうですか俺は」っていうのが一番なんです。僕は地元の佐久市で、落語家では初めて文化センターの館長を2年間やったんです(総合文化施設佐久市コスモホール)。そこで地域密着型で「落語は現代にも生きてますよ」っていう成功事例を作って師匠を定期的に呼ぶ、みたいなことをやり続けて、師匠を自分なりに喜ばせようとがんばってましたね。

生志 師匠は結果を出したら言ってきてくれる人だからね。僕は自分の会に来てくれるお客さんをどうやって増やすか、この人たちが減らないように毎回楽しいライブをやろうっていうことを心がけて、それが続いてれば談志はいつか振り向いてくれるだろうと。師匠が亡くなる前に福岡の博多座という1400人のキャパのホールで親子会をやったんです(2010年12月)。師匠にお願いしたら「生きてたらな」って言われました。それはぎりぎり間に合った。その公演の映像で、師匠は本当に嬉しそうな顔してるんですよね。いい師匠孝行ができたと素直に思いました。僕にとってはその博多座と国立(演芸場)でやったのが師匠と楽屋で過ごした最後です。もうわだかまりはなにもないし、ひょっとしたら師匠がまだ生きてたら、普通の師弟関係がもっと経験できたかもしれない。それができなかった淋しさっていうのはあるけど、生きてたら「おめえの芸はなんか違うんだよ」って、また叱られていたかもしれない(笑)。

談慶 僕は、師匠が機嫌がいいときに「俺に聞きたいことあるだろ」って水を向けてくれたチャンスをいっぱい逃してるんですよ。長野に師匠が来てくれて二人きりでいろいろ話したときなんか「こんなこと話したらまた馬鹿にされるかな」っていう変な自主規制が働いちゃった。あのとき甘えとけばよかった。それと、もっと華々しく売れてる姿を見せたかったなって気持ちはありますね。

───2011年11月に談志さんは亡くなったわけですが、遺言ということで、どなたも臨終には立ち会えなかった。途中の経過は聞かされず、すでに火葬が終わってから伝えられるということになってしまいました。そのときはどんな思いが去来したでしょうか。

生志 自分の父親を亡くしたときの経験で言えば、亡骸を見て、骨になるのを見て死を実感していくものじゃないですか。それをなぜ見せてくれなかったのか。「遺言っていうけど本当?」って正直ご遺族には思いました。談志は公人ですから、正直弟子には会わせてほしかったです。だって、みんなそれぞれが人生賭けたんですよ、その人に。

談慶 僕は営業先の北海道で知ったんですよ。その晩、僕はホテルで一人きりだったんですけど、押しつぶされそうで辛かった。「ご遺族にしてみれば、衰えた体が火葬されていく姿を師匠に憧れて入門したお弟子さんたちには見せたくないだろう」と、そう考えて無理やりこれでよかったって思うようにして、やっと眠りについたんです。いまだに師匠の夢を見ます。師匠から電話かかってきて、それに出るといつもの癖で師匠が「な?」って言う。それに「はい」って返事をして目が覚めるんです。それで「師匠は生きてるじゃないか、みんなで嘘つきやがって」って思うんです。

生志 普段からしょっちゅう会ってたわけじゃないので、そういう意味では生活は変わらない。しくじりにつながる電話がかかってこないだけでね。師匠は僕が真打ちになったときに「こういう仕打ちが糧になる。俺に対する不満、愚痴っていうのがいろいろあるだろう。それを知っている者と知らない者では全然違う」って言ってくれました。「言い訳じゃない。これはこいつにとっていいことなんです」って。当時は言い訳だと思ってたんですけどね(笑)。でも、真打ちになって6年目ですが、ここ数年で僕の落語が変わってきたな、って自分でも思うんです。

───それはどういう点でしょうか。

生志 落語に対するとらえかたが全然違ってきた。たとえば「鼠穴」(古典落語。兄がひさしぶりに再会した弟をわざと突き放すことで、奮発して商人として成功するように仕向ける)だと、兄が弟に言う「これは言い訳と思うかもしれないが」という台詞が自然に自分の言葉でできるようになった。これから僕の落語人生があと何年残っているか判らないけど、「もとの噺はこうだけど、生志さんの落語はそれよりおもしろいよね」と言われるものを作っていきたい。若いときは「自分と同世代の人間を笑わせたい」という気持ちで落語家になりましたが、今は落語のもっと深い良さを自分よりも若い人たちに伝えられるようになりたいなと思っています。良くも悪くも経験させてもらったことを昇華させて、自分の落語を作って、お客さんに喜んでもらえる落語家になりたいです。

談慶 僕は師匠が晩年に重視していた「江戸の風」を、自分なりにどう昇華していくのかというのがオリジナリティにつながっていくと考えてます。1月に国立(演芸場)でかけた「文七元結」(古典落語。博打で堕落した父親が娘の身を捨てた行動によって救われ、江戸っ子の意地を見せる)は、あれは博打うちの話だ、って解釈した瞬間に自分の中で答えが出たような気がしたんです。そうやって自分なりの落語を作っていくほかに、僕にはオリジナルのアカペラ落語(アカペラグループのINSPiとのコラボレーション舞台。2013 年には芸術祭に参加した)というのもあります。生志兄さんも含めて本格派の先輩が上にはいっぱいいます。後を追うような形ではありますが、落語と縁がなかった人たちに落語を聞かせていきたいというのは一つの目標ですね。そうやっていれば師匠が大きな星の下から「やってんなー」って見てくれるんじゃないかって。
(杉江松恋)

※本対談の収録が行われた新宿Biri-Biri酒場では、落語会の開催を予定しております。
第1弾はお二人の兄弟子・立川談四楼独演会。2月22日25時(23日午前1時)に始まって始発電車が動いたら終わるという、前代未聞の「本当の深夜寄席」です。詳細は公式サイトからどうぞ。

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