好評放送中のNHK総合の土曜ドラマ「植木等とのぼせもん」(夜8時15分~)。クレージーキャッツの植木等と、その付き人・松崎雅臣(のちの小松政夫)の師弟関係を描くドラマだが、先週、9月16日放送の第3回では、植木と同じくクレージーの谷啓、そしてリーダーのハナ肇との関係がクローズアップされた。

「植木等とのぼせもん」ほぼ実話か3話、まるでコントな谷啓の行動
谷啓の生前最後のインタビューをまとめた『谷啓 笑いのツボ 人生のツボ』(小学館)。聞き手はワハハ本舗主宰の喰始。東京オリンピック当時の“奇行”についても語られている

第3話はこんな話……ハナ肇、植木等を叱る


時は東京オリンピックが開催された1964年10月。谷啓(浜野健太)が突然、クレージーキャッツをやめたいと植木等(山本耕史)に打ち明ける。「はっきり言やあマンネリだよ。僕らが飽きたら見てるほうだって飽きる。そうなったら終わりだ」と言うのだ。これに対し植木は「二人だけの話にしておこう」ととりなすも、付き人の松崎雅臣(志尊淳)は偶然それを立ち聞きしてしまい、動揺する。

谷のことを隠していた植木だが、ハナ肇(山内圭哉)はそれとなく気づいたのだろう。ハナから訊かれて、植木は知らぬふりを決め込む。が、当の植木も、自分が前面に出ていくことにためらいを覚えており、そのことをふいに漏らすと、ハナから「そういうこと、二度と言うんじゃねえ」と一喝されてしまう。

一方で谷の悩みは深まるばかりだった。映画撮影の休憩中には、オリンピックを伝える新聞を手にしながら「こんな薄暗いところでうじうじと、絵空事ばっかりやっていて、何になるというんだろうね」と、松崎にぼやく。

その後、メンバー間を相談してまわる松崎の姿を不審に思ったハナは、ついに谷のことを聞き出し、植木を呼び出す。車から松崎を外させ、話し合う二人。
ハナは「俺たちは単なる友達じゃねえ。ただの仕事仲間でもねえ。戦友だよ、戦友! 何があっても隠し事やウソはなし。そのかわりお互い死ぬときは一緒だ」と、植木をいさめる。ハナには植木の水くささが許せなかったのだ。それは前回、松崎が母親を追い帰したのを、植木が諭したのと通じるものがあるだろう。谷については、ハナが「谷啓のことはな、俺が直接やつと話してみるよ」ということで、ハイ、それまでョということになる。

ハナが話をしたせいなのか、オリンピックが閉幕したせいなのか、谷啓は再びクレージーの面々に明るくふるまうようになる。スタジオに現れた彼は、持ちギャグの「ガチョーン」を披露して、みんなをずっこけさせるのだった。それにしても、谷を演じる浜野謙太は、目をしばたたかせたりして、本人によく似せていた。

谷啓がハナ肇にどのように説得されたのかは、ドラマでは描かれていなかった。それも見たかった気もするが、実際に描いたら、先のハナと植木との話し合いのシーンとかぶって、くどく感じられたかもしれない。
そう考えると、これはこれでよかったのだろう。このドラマのつくり手は、あえてそうした説明的なシーンを省いているふしがある。先の第2話でも、松崎の母親が上京した際に持ってきた郷里のみやげが、なぜか彼の行きつけの理髪店にあり、それについてとくに説明もなかった。ドラマも含め多くのテレビ番組が説明過多になりがちな昨今、こうした視聴者に想像の余地を残したつくり方は稀有といえる。

オリンピックを本当にめざした谷啓


今回の話は、複数の現実のエピソード(それぞれ別個に伝わっている話)を、ひとつの物語にまとめたものと思われる。

まず、谷啓がオリンピックに熱中したという話は、本人が生前にインタビューで語ったことを踏まえたものだろう。当時、谷は、オリンピックのマラソンコースとなった甲州街道の近くに住んでいた。

《だからオリンピックが始まる前に、マラソンの練習とかで実際に甲州街道を使ってやっているので、なんか騒々しくてイヤだなぁ、くだらないなぁと思ったんですよ。それで、オリンピックの開会式の日に六本木を歩いていたら、なんかジェット機が5~6機五輪のマークの飛行機雲を流したのを見て、「うむ、これだ!」ってなんかのってきちゃって。夜、始まったオリンピックのハイライト番組を見て、すっかりハマッちゃって。すごいもんだなぁと。それで自分がとっても情けなくなってね。あんなすばらしいことをやっているのに、僕は何をやっているんだと》(喰始『谷啓 笑いのツボ 人生のツボ』小学館)

オリンピックを見ながら自分を省みたというのは、ドラマでも忠実に再現されていた。
ドラマではまた、谷が重量挙げで金メダルをとった三宅義信に影響されて、電話の受話器をバーベルよろしく持ち上げようとするコントのようなシーンがあったが、あれも実際に家でしていたことらしい。谷によれば、《白地に赤でJAPANと縫いつけたシャツをカミさんに作ってもら》い、家にいるときはそれを着てすごし、電話機のそばには滑り止め代わりにメリケン粉を置いていたという(前掲書)。冗談のようだが、本当の話である。

こうした行動も、「自分は何をやっているんだ」という思いに端を発していた。閉会式で、「次の開催地メキシコで会いましょう」と電光掲示板に出たとき、谷は「よし! オリンピックの選手になる」と決め、次の日には、ライフル射撃でもやろうかと鉄砲店に出かけたりしたという。そんなふうに熱中しながらも、一方では「子供たちに対して、何もできないお父さんで悪いなあ」という気持ちに苦しんでいたというのが、谷啓という人物の複雑さを思わせる。

谷がクレージーをやめようとした本当の理由


次に、谷啓がクレージーをやめようとした話も事実らしい。これについては、小林信彦の『喜劇人に花束を』(新潮文庫)や、青島幸男の実録小説『蒼天に翔る』(新潮文庫)にも書かれている。ただし、その理由はオリンピックではなく、所属する渡辺プロダクション社長の渡辺晋への不満からだったようだ。

当時の渡辺プロは、タレントを提供するだけでなく、番組や映画、舞台、レコードの制作にも積極的にかかわり、芸能界を牛耳るまでになっていた。渡辺の強引ともいえるやり方には、谷啓だけでなく反発するタレントも少なくなかったらしい。

もうひとつ、ドラマで描かれていた、植木等とハナ肇が車の中で、松崎を外して、二人きりで話し合ったという場面は、ドラマの原案となる小松政夫の『のぼせもんやけん2』(竹書房)に出てくる。この本はあくまで小説で、多少は脚色されているのだろうが、似たようなことはおそらく実際にあったのだろう。


クレージーソングと東京五輪の意外な関係


ところで、今回の話で、クレージーキャッツが歌っていた曲のひとつ「だまって俺について来い」は、東京オリンピック開催の翌月、1964年11月にレコードが発売された。後年、天童よしみがカバーして、テレビアニメ「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主題歌にもなったから、若い世代にも結構知られているのではないか。

この歌は、東京オリンピックともちょっと関係がある。このとき優勝した日本女子バレーボールチームの監督・大松博文の口癖が「俺について来い」だったのだ。オリンピック開催の前年、1963年に出た大松の著書のタイトルも『おれについてこい!』で、流行語となった。この本はオリンピックの翌年には映画化もされ、大松の役をほかならぬハナ肇が演じている。もともと両者はそっくりといわれていただけに、まさに適役であった。

ハナはドラマでも描かれていたように、東京オリンピック前より単独で映画に出演することも増えていた。それは谷啓も同じで、1964年の正月には、クレージーキャッツ全員が出演した「香港クレージー作戦」のほか、ハナ主演の「馬鹿まるだし」、そして谷主演の「図々しい奴」と彼らの映画が一挙に並んだ。まさにクレージーキャッツの黄金期である。

「スーダラ節」作曲家の経歴


第3話には、「スーダラ節」をはじめ、作詞の青島幸男とコンビを組み、クレージーキャッツに多くの曲を提供した萩原哲晶(ひろあき。「てっしょう」とも呼ばれる)が出てきたのも(演じていたのは、ミュージシャンでもあるうじきつよし)、うれしかった。

萩原は戦後まもなくに「デューク・オクテット」というバンドを結成、若き日の植木等とハナ肇も参加している。
バンドを解散後は、一時、ハナの結成したキューバンキャッツに入ったものの、すぐやめてしまう。このあと、萩原はポップスのアレンジやドラマの音楽を手がけるうちに、本人いわく「ネタにつまり」、転身を考えた。そこからハナに、歌を手がけてみたいと相談したところ、青島を紹介され、クレージーに楽曲を提供するようになったという(小林信彦『喜劇人に花束を』)。

さて、「植木等とのぼせもん」第3話のラストでは、酒場で松崎がニヒルな青年(中島歩)との出会う様子が描かれていた。一体、この青年は何者なのか。次回以降の展開に期待して、ではまた来週、レビューでお会いしましょう。さよなら、さよなら、さよなら。
(近藤正高)
編集部おすすめ