テレビ番組が取り上げたからだ。
3月13日夜、『この差って何ですか?』(TBS)だ。
人気番組だ。おもしろい。影響も大きいだろう。
だから嘘をばらまかれると、よけいに困る。
国語辞典の特徴、選び方、楽しみ方がつまった楽しい一冊
「どう使い分けたらいいの? この差日本語辞典」コーナーの進行役はサンキュータツオさん。
「了解/承知」の使い分けを解説した。
了解、承知、「実はどちらか一方しか使ってはいけないのです」と言いきる。
いちいち「ええええーー」という声が重ねられる。
【了解しました】 目上が 目下に使う 分かりました
【承知しました】 目下が 目上に使う 分かりました
という解説が行われると、
「あああー」「へぇぇぇー」という不自然で大袈裟な声が重なる(←こういうのも控えてほしい)。
問題点をあげていく。
国語辞典の特徴、選び方、楽しみ方がつまった楽しい一冊
【問題点1】そもそもデマである
菊池良さんのていねいな追跡記事をぜひ読んでほしい。
「了解しました」より「承知しました」が適切とされる理由と、その普及過程について
記事によると、「了解しました」が失礼だという流れは以下のようにして生みだされた。
もともと「了解しました」という表現が世間にひろまっていることに違和を感じた神垣あゆみさん。
2007年ごろに、彼女が「承知しました」が“感じが良い”と書いた。
2009年、次の著作で「了解しました」を不適切とした。
この本を参考文献とし他の本でも了解を不適切とするマナー本や文章本がでてきた。
つまり、「了解しました」が不適切だと言われはじめたのは、さかのぼっても2007年のころ。
「了解しました」より「承知しました」のほうが“感じが良い”ということがきっかけだったのだ。
国語辞書編纂者の飯間浩明さんのツイートも参考になる。
「了解いたしました」がべつに失礼ではないという話は以前にもしましたが、あまり誤解は解消されていないようです。改めてまとめを作りました。不必要な軋轢(あつれき)がなくなることを願うばかりです。 pic.twitter.com/lJKeoRhnmL
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) 2016年6月12日
“「了解いたしました」がべつに失礼ではないという話は以前にもしましたが、あまり誤解は解消されていないようです。改めてまとめを作りました。不必要な軋轢(あつれき)がなくなることを願うばかりです。”
飯間さんは、“2011年に出たマナー本に「『了解』は目上に使うな」という趣旨のことが書かれています。私は、なぜかそこだけ無批判に紹介した”ことを悔いている。
“当初は無批判に紹介していました。不明を恥じます。”
とまでツイートしている。
そして、“「了解」ということばが失礼であるーと言われるようになったのは、ここ10年ほどのことです。誤解に基づくのですが、日本語関係の一般書で無責任にそう説明するものが増えました”という啓蒙を繰り返している。
サンキュータツオさんは、国語辞書マニアで、このツイートを知らぬわけではないだろう。
なのになぜ無責任な説明を拡散することに加担したのか、不思議だ。
番組で「失礼だと勘違いする人もいる」という紹介をしたのならいいが、そうではない。
「実はどちらか一方しか使ってはいけないのです」と断言している。
さらに、出演者を具体例として、先輩後輩関係でこう使えと誤導するのだ。
【問題点2】理由が、成り立っていない
サンキュータツオさんは、「了解」が失礼な理由を以下のように説明した。
了=終わらせる
解=理解する
つまり
了解=話を理解して終わらせる
である。
「終わらせる権限があるのはどちらかってはなしなんです」と言う。
ここで話を終わりだと決めるのは、目上の人なので、
目上の人から目下の人へは「了解しました」
目下の人から目上の人へは「承知しました」
と使うのだ、と。
「子供」の「供」は「つき従う者」の意味だから、「“子供”と書くな“子ども”と書くべし」という狂乱があった。
いまでは、そんな間抜けなことを言う人はほとんどいなくなった。
漢字1字の意味をピックアップして、強引に屁理屈をこねればなんとでも言えるのだ。
辞書を引けば簡単にわかることだが、「了」には「わかる・理解する」という意味がある。
「了」も「解」のどちらとも「理解する」という意味であり、類似の動詞を重ねた用法だ。
そもそも、百歩譲って、
了=終わらせる
解=理解する
だとしても、
「理解を終わらせる」つまり、「すっかり理解しました」と考えるほうが自然だ。
これを、「理解して話を終わらせる」の意味にとるのは強引だろう。
【問題点3】承知に謙譲の意味があるのか?
番組では、「承知」に謙譲の意味があるという解説もあった。
「承」が「承る」で謙譲語だからという説明だ。
だが、謙譲の意をもつ漢字が入っていれば、尊敬語になるというのは誤り。
たとえば「参る」は謙譲語だ。だが「参加」は謙譲語ではない。
「参加」が、もし謙譲語だとすれば「参加してね」は相手を下げていて失礼ということになってしまうが、そんなことはない。
また「承」が入っている「承諾した」に謙譲のニュアンスを感じる人はいないだろう。
「デジタル大辞泉」を引いてみよう。
【承知】依頼・要求などを聞き入れること。承諾。
念のため『広辞苑第七版』も引いてみよう。
【承知】聞き入れること。承諾。
「はい、承知しました」で使うケースでは「うけたまわる」イメージは意味に込められていない。
【問題点4】偽マナーは脅しだ
もっとも困るのは、ビジネスの現場に、こういった「くだらない偽マナー」が蔓延することだ。
「了解は失礼だ、そんなことも知らんのか」と怒ってくる人がでてくる。
そして、不必要な軋轢が生じるのだ。
ちょいとかじった知識をひけらかしたいがために怒るヤツらなら、まあ、まだ、かわいいものだ。
が、ちがうケースもある。
偽マナーは、新たな世界に飛び込む若者を怯えさせ、ひるませてしまう。
間違った言葉を使ってるのじゃないか、失礼じゃないか。
不安になって、なんでもかんでも敬意を示したメールを送ってくる人がいる。
「ああ、このメールを書くのに何時間もかけたんだろうな、ご苦労さま」と感じる。
「偽マナーに踊らされなくていいよー、気楽に書いてー」と返信する。
そういうやりとりすらできないケースもあるかもしれないのだ。
「偽マナー」は、脅しだ。
「今までの布団を使ってたら、健康を害しますよ、この高級布団を使わないと!」
といった商法と同じ構造なのだ。
「今まで使ってる言葉では、人間関係を壊しますよ、この偽マナーを習得しないと!」
品がない。やめましょうよ、そんなの。
【問題点5】承知と了解は、そもそも意味が違う
意味が違うものを、ただ目上だの目下だのという理由で入れ替えてもらうと困るのだ。
「了解した」は、「すっかり理解しました」という意味だ。
「承知した」は、「依頼・要求などを聞き入れました」という意味だ
意味が違うんである。
「了解」は「理解した」ニュアンスが表にでてくる。
ちょっとややこしい案件をメールしたときの返信は、「承知」より「了解」のほうが、正直安心する。
「承知しました」とくると、ちゃんと理解してくれるほうがいいんだよなー、って感じになって、ちょっと不安だ。
ニュアンスの問題に限っても、了解と承知の使い分けは、目上目下といった問題ではない。
「承知」のほうが、かしこまっているニュアンスなのだ。
「了解」のほうが、くだけている。ビジネスライクだ。
だから、正式な書類では「了解いたしました」より、「承知いたしました」のほうが適切な場合もあるだろう。
もちろん、こういったことは、微妙なニュアンスにすぎない。
どちらか一方しか使ってはいけないってわけじゃない。
だからこそ、その微妙なニュアンスを削ぎ落とし、なかったかのように、ただの「失礼か失礼ではい」といった乱暴なマナーにしてしまう無神経さに困惑するのだ。
サンキュータツオさんの『学校では教えてくれない! 国語辞典の遊び方』はとても面白い本だ。
こういう一節がある。
“ことばは道具です。だから、相手に気持ちを伝えられて、はじめて意味のあるものになります。フォーク一本でご飯を食べている人というのは、実は、相手にもそういう乱暴なマナーを強要していることになるのです”
【問題点6】過剰な形式的敬意は不要
そもそも、ビジネスの現場に、過剰な上下関係は、まだ必要だろうか?
とくにビジネスメールで、それいる?
相手に対する敬意は、やりとりのなかでこぼれ落ちてくるぐらいがよい。
固定化されたルールとしての謙譲や敬意を押しつけなくていい。
じつは、ルールだからといって言葉をむりやり捻じ曲げて使ってもムダだ。
敬意や謙譲なんていう繊細な感情は、あなたの行動やメールの内容、他の言葉にも表出してしまう。
ひとつやふたつ強引に使い慣れない言葉を使っても、バレてしまう。
いや、それどころか、慇懃無礼になるだけだろう。
「慇懃無礼って何?」だって? 辞書を引けーー。(テキスト/米光一成)