伸び伸び育った幼少期。だが、16歳になると突然、母から夕食を作るミッションを与えられた。

「なんで私が」。当時は反発したが、いまになって母の思いがわかるようになったという。なぜなら、私も母になったから。

女優・永作博美。これまで、映画やドラマで、さまざまな女性を演じてきた時代を代表する女優だ。そんな彼女が、次に演じるのは、子離れしようとする母親。すべてが演技の糧になってきたという半生を語った。

「これまで私が演じてきた作品と比べても、ぜんぜんテイストが違います。こんなに明るく前向きで、平和な女性の役って……初めてかもしれません」

女優・永作博美さん(55)が、次の撮影場所へと歩を進めながら、声を弾ませて言う。

桜舞う、4月初旬の昼下がり、場所は東京・東宝スタジオ。夕刻にはこの時期恒例の「花見ライトアップ」が開催される予定で、隣接の広場では特大のゴジラ像が、列をなす来場者を迎え入れていた。仙川沿いの歩道を行く永作さんの声がハイトーンなのは、雨が上がって陽光がのぞいたから、だけではないようだ。

「まさか、こんなお話が来るとは思っていませんでした。ホントにビックリしましたが、台本を読ませていただくと、子育てを終え、新しい世界に飛び込むお母さんの役でしたので、緊張しつつも、撮影を心待ちにしていました」

彼女が「こんなお話」と言うのは、連続ドラマの主演オファーのことである。しかも永作さん自身「14年ぶりの民放連ドラ主演」ということで、初回放送(4月7日)以前から、連日のように報道されていた。

放送中の火曜ドラマ『時すでにおスシ!?』(TBS系、毎週火曜日22時~)で永作さんが演じているのは「子育て卒業」という人生の大きな区切りを迎え、50代に入って久しぶりに自分の時間と向き合うこととなる女性・待山みなとだ。

夫を不慮の事故で亡くし、シングルマザーとして育てあげた息子の渚(中沢元紀)が独り立ちする場面でドラマの幕は開く。“子育てロス”にぼうぜんとするなか、親友の磯田泉美(有働由美子)に誘われ、3カ月ですし職人になれるという“鮨アカデミー”に入校。

講師の大江戸海弥(松山ケンイチ)や同窓らと、ときにぶつかり合い、協力しながら第二の人生を模索しようと奮闘する、みなとの姿が生き生きと描かれる。

永作さんといえば映画やドラマで、女性の“内面の機微”を表情豊かに演じて高く評価されてきた女優である。

出世作となったドラマ『週末婚』(1999年)では、姉役の松下由樹(57)との“姉妹のドロドロ”劇を演じた。「内心すごく困り果て、怒りたいけれど口には出せない」といった主人公の心情を、微妙な表情の七変化で表し、多くの女性の支持と共感を得た。

映画『八日目の蝉』(2011年)では、不倫相手の自宅に侵入して赤子を誘拐し、母娘然として逃亡生活を送った女性犯罪者を演じて、第35回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞している。

そのように、数多くの出演作で“訳あり女性”を演じてきたが、この『時すでにおスシ!?』はコメディタッチでテンポも軽く、平日の夜に「笑って、ドキドキして、ホッとする」ピースフルな連ドラだ。

「50代のお母さんという設定は、現在の私とドンピシャ、リンクするのでワクワクします。『14年ぶり』ですが、母親の立場の内心はわかりますからね。役柄の心境や場面がリアルの自分に近いのならば、すべて思うままを出せたらいいなと思っているんです」

永作さんは2児の母だ。母親業もだいぶ落ち着いてきたとはいえ、子育てに割く時間も、「まだまだやることは山積み」だという。成長期、思春期を迎えれば、また別種の悩みが生じてくるのも、親子というものだろう。

彼女が今回演じるにあたり「思うままを出せたら」と思ったのは、家庭でのどんな自分なのか?

「あの~、リアルにバタバタしたお母さんの部分ですかね!」

■調理師を目指すが、芸能界の扉が開いて

永作博美さんは1970年10月14日、茨城県で生まれた。「3人娘の真ん中」として育った次女だ。

「関東平野にあって、実家の後ろは霞ヶ浦と、大地と湖に恵まれた環境で過ごしました」

忙しい両親から、幼少期は「細かいことを言われず、干渉されずに」育てられたという。家業に明け暮れる両親に代わり、大人でよく一緒にいたのは、父方の曽祖母だったそうだ。

「幼いころ、両親からこまごまと言われた覚えはないんです。姉と妹がいましたが、私は単独行動することが多く、一人で遊んでいました。学校の行き帰りも、あっちに行ったり、こっちに来たりの寄り道も、一人でした」

もちろん小学校では団体行動が基本だし、友達といれば友達同士のペースに合わせることになる。

「だから、『周りのペースに合わせるのは、学校だけでじゅうぶんだ』と私は思っていたんです」

こうして独創的かつマイペースで過ごしてきた永作さんだったが、義務教育が終わると一転、家事を任されることになったという。

「高校1年生、16歳になる年に、急に母に言われて、夕食を任されるようになりました。母は『16歳になったら』と決めていたんでしょう。姉も夕食を任されたのが、そのタイミングでしたから。たぶん母自身が若いころ、してきたことだろうと」

さらには。

「母は朝早くから(仕事に)出てしまうので、家族分の夕食のほか、朝、学校に持っていく弁当も作りましたね」

そんな“指令”に対して、年ごろの娘は当然、反発心がまさる。

「ええ、『なんで私がやらなきゃいけないんだろう?』と思っていました。周りの友達は、部活や遊びと自由にやっていましたから」

永作さんは当時、バレーボール部に所属していたが、部活をしていると夕食の支度が間に合わないため、結局は部を辞めざるをえなくなったのだ。

「母とは、ケンカになりました。『なんで家のことで、部活を辞めなきゃいけないの?』って口利かなくなって(笑)。でも、私は特段バレーボールがうまかったわけでもない。部活を、家事をしないですむ大義名分にしたかっただけだと思います」

そのように、親からの言いつけを渋々聞き入れた高校時代だったが、3年生のときに一つの転機が訪れる。

「歌うことが好き」だった彼女はフジテレビの深夜番組の「高校生女子の出演者募集」に応募し合格。

芸能界と接点ができたが、現実的な職業としては調理師を考え、卒業後は、ひとまず調理師学校にも通っていた。

その後の1989年、3人組アイドルグループ「ribbon」のメンバーとなり、歌手デビュー。しかし女優のほうは「演技なんて恥ずかしくて、とてもできないと思っていた」と、意外なことを告白してくれた。

「じつは、デビューしてからの数年間は、いつ辞めても、おかしくなかったんです。私自身、女優にまったく向いていると思っていませんでしたし、何度も『辞めたい』と思いました」

いまも、そう話すほどだから、「イヤイヤやっていた」のだろう。初舞台となった劇団☆新感線の戯曲『TIMESLIP 黄金丸』(1993年)の稽古も「本当にイヤだった」と振り返る。

「“やる気なし”で、座長(同劇団主宰・いのうえひでのりさん、66)の指導も、受け入れることをせずに『こんなの嫌だ!』っていう感じがマックスだったと思うんです。いま考えれば『甘えもいいとこ』ですが……」

ところがある日の稽古で《こうなっちゃったんだから、しょうがないじゃない!》というセリフに、積もり積もった「嫌だ!」という感情が「ちょうど乗った」という。すると演出のいのうえさんに、「それでいいんだよ!」と、初めて褒められた。

「それまでずっと、怒られ続けていたのに、『いまメチャクチャ気持ちよかった、なにこの感覚!』っていう感じに、マイナスだった針が『ギュイーン』って、反対側に行ってはね返ってきたんです。初めて、個人的な怒りの感情と、芝居の感情表現とが、つながった。

それを褒めていただいたことで、成功体験になったんでしょうね」

微細な感情を表情一つで表現する「女優・永作博美」が開眼した瞬間だった。

(取材・文:鈴木利宗/ヘアメーク:住本彩/スタイリング:岡本純子/衣装:ADORE/アクセサリー:YVETTE)

【後編】「ベタベタするだけが家族じゃない」永作博美 “女優と母”両立の葛藤を経て…たどり着いた2児との“自然な距離感”へ続く

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