老いとはどのように向き合うといいか。浄土真宗本願寺派僧侶の増田将之さんは「わずかでも心身の衰えを感じたら、それを受け入れないと、かえって老化を意識せざるをえなくなる。
豊富な経験を蓄積してきた分、判断力や洞察力が磨かれていると捉え、どっしり構えていればいい」という――。
※本稿は、増田将之『その悩み、ただの執着』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
■「老い」とは、それ相応につき合いなさい
「不老不死」――この言葉から、私たちは生物学的な「老い」と「死」を連想します。それで「ありえない」と断じます。
仏教ではこう考えます。
「四苦の一つである老いからは決して逃れることはできないので、それを受け入れ、向き合い、相応につき合うことがよい」
みなさん、50歳をすぎたころから、老いを意識し始めるようです。意識というより、「年を取りたくない」という老いへの嫌悪感でしょうか。それに合わせて、「自分はまだまだやれる」と、若さへの執着が強くなるような気がします。
要するに、自身の老いに気づきながらも、すんなり受け入れられない、といったところでしょう。
しかし、誰しも確実に年齢は積み上げられていきます。これが現実なのです。
この真理を前に、時計の針を戻すことも、その動きを遅くすることも不可能です。
受け入れるしかありません。たとえば、
「ちょっと近くが見えにくくなった。老いかな」

「足腰が弱くなった。老いかな」

「集中力が続かないし、持続力も衰えてきた。老いかな」

「脂っこいものを食べると、胃がもたれるようになった。老いかな」
といった具合に、わずかでも心身の衰えを感じたら、それは間違いなく「老いの兆し」なのです。
こうした老いを受け入れないと、かえって老化を意識せざるをえなくなります。
自分では若いつもりでいても、うまくいかないことが出てきます。そのたびに「こんなはずじゃなかった」とイライラすることが増えるのです。しかも、若いときと同じように行動しようと焦れば焦るほど失敗する。そうなるのが目に見えています。
■「老害」なんて気にするべからず
しかし、老いもまた悪い面ばかりというわけではありません。

身体の動きが鈍くなってしまうのは仕方がないかもしれませんが、精神的には成熟し、ゆったりとした時間を楽しめるのではないでしょうか。
若い時分には目にもとめなかった道端の草花の美しさや、歴史ある建造物の荘厳に心を打たれるかもしれません。年を重ねることによる、新たな気づきや楽しみがあるはずです。
また職場でも、65歳、70歳と、定年が延びるなかで、“シニア人口”は増えています。昔のように、60歳をすぎたら悠々自適、とはいかないものです。
そのなかでシニアのみなさんは、経験値が高い分、若手の仕事に何かと口を出したくなるでしょう。なかには逆に、煙たがられたくなくて若手への助言を極力遠慮している人もいるかもしれません。
若手から「老害だ」と言われようが、そんなに気にする必要はありません。豊富な経験を蓄積してきた分、判断力や洞察力が磨かれているはず。しかも得意分野は、熟練の域に達しているでしょう。
“ベテラン力”が上がると捉え、どっしり構えていればいいのです。ただし、ハラスメントになるような言動は慎むのが正解です。

■病気を機に新しい生き方を
病気になって、気分が落ちこまない人はいません。軽い風邪でも、余命宣告をされるほどの重い病気でも、
「どうして自分なのか」
と、「病気に自分が選ばれてしまった」ことを理不尽に思うでしょう。
しかし、悪いことばかりではありません。病気は、人生にとっての大事な「気づき」を与えてくれます。
病気になったりしたとき、その原因の一つは、何かをやりすぎたか、やらなすぎたか、にあるものです。たとえば、仕事や家事・育児による過労が典型でしょう。
しかし病気になったおかげで、休養する時間を持てたり、人のありがたさが身にしみたり、自分やまわりのことを見直すきっかけになったりすることも少なくないはずです。
そうして、これまでの自分の過不足に気づき、「ちょうどいい生き方」を見つけていけばいいのです。
■病気は試練でも罰でもない
病気というのは、神さま・仏さま・阿弥陀さまが私たちを試すために与えた試練でもなければ、日ごろの行いの悪さをこらしめるための罰でもありません。
当たり前だと思うかもしれませんが、これだけ技術の進んだ現代でも、「神罰」とか「仏罰」があると考える人たちは少なくないのです。
そう考えることで、「試練に打ち勝つ」「もう罰当たりなことはすまい」と前を向けるなら構いませんが、不幸感が増すようなら、そう考えないほうがいいでしょう。
そもそも阿弥陀さまは、億単位の人たちの思いや行動を見て、試練や罰を与えるほど暇ではないでしょう。
それでも何かの伝言と思いたいなら、
「自分自身を見つめ直す時間をくださった」
と捉えるのがいいかと思います。
じつは、かくいう私も、罰が当たったかと思ったことがあります。
2年ほど前に股関節の変形性関節炎になり、痛みで正座ができないほどでした。正座ができないと、お勤めができず致命傷です。それで「これは何かの罰か試練か」と悩んだのです。
しかし、ほどなく気づきました、正座をせずにお経を称えるお坊さんが意外と多くいらっしゃることに。
それまで私は、お寺さんに随行してお勤めするなかで、正座をしてピクリとも動かない状態が当たり前だと勝手に思い込んでいたのでした。
お坊さんであっても、年を取れば、体のあちこちが痛みます。正座ができなくなったり、腰痛で座るのがつらくなったりすることもあるでしょう。
だとしたら、椅子に座ってやればいい。どんな姿勢をとろうと、お勤めしていることに変わりはないのです。ある意味、股関節痛はお勤めの本質に気づくきっかけを与えてくれたのでした。

みなさんも病気やケガをしたら、少し立ち止まって、自分自身の仕事や将来を見つめ直してみるといいでしょう。何か気づきが得られるはずです。
■病気を起点にやりたいことを考える
病気になると、重症度にかかわらず、気持ちが落ち込むものです。「何もやる気になれない」というのが本音でしょう。
私が悩みを聞いた重病のある男性もそうでした。
この方は長期の入院をされており、家でもいままでのようにはうまく動けませんでした。いつも介護をしている奥さんは常に笑顔でしたが、それが余計に辛く、「私がいない方がよいのではないか」と考えていました。
しかし、奥さんはそんなことは一つも思わず、この方と一緒にいる時間をとても大切にされていました。
今まで仕事人間だったこの方は、こんなに奥さんと深く接することがなかったそうです。
しかし、病気になったことで、やっと奥さんとの時間がかけがえのないものだということに気づき、一緒に趣味を楽しむなど、何かやりがいを見つけたようでした。
私の父も余命宣告を受けましたが、「自分の足で歩き続けたい」「まだ畑仕事がしたい」など、活力に満ちあふれ、いまもとても楽しそうな人生を生きています。
「病気になったからこそ、いまを懸命に生きよう」
そう考えて、病気を起点に新しい人生を切り開けばいいのです。


----------

増田 将之(ますだ・まさゆき)

浄土真宗本願寺派僧侶、公益財団法人仏教伝道協会職員

1976年、千葉県生まれ。「フリースタイルな僧侶たち」顧問、浄土真宗本願寺派勝満寺、善行寺他にて法務に就く。現在は、公益財団法人仏教伝道協会職員として、お寺とのつながりを築きながら、一般の方への仏教普及に奮闘中。「仏教井戸端トーク」主宰にて各地のお寺でイベントを開催。司会でありながら、登壇者よりも長く話すスタイルが好評。

----------

(浄土真宗本願寺派僧侶、公益財団法人仏教伝道協会職員 増田 将之)
編集部おすすめ