「生きる化石」と呼ばれる深海魚・シーラカンスは、どういう生物なのか。44年前に捕獲されたばかりのシーラカンスを撮影した映画カメラマンの堀田泰寛さんに、ジャーナリストの高野真吾さんが聞いた――。
(第2回)
※本稿は、高野真吾『シーラカンスに会いに行く』(ポプラ社)の一部を再編集したものです。
■シーラカンスの釣り方はシンプル
シーラカンス漁は、細長いカヌーに乗り、手漕ぎで海に出る。より正確に書くと、コモロの漁師たちが乗るのは3~5.5メートルほどのカヌー。本体の片側、または両側にアウトリガーと呼ばれる浮子を付けたタイプを使う。そこにひとり、またはふたりが乗り込んで海に出る。
漁はシンプルで、大きな釣り針にエサとなる魚を付けて、水深200メートルまで釣り糸を下ろす。リールや竿などの道具は使わない。
ただし、時に体長170センチを超える巨体を釣り上げるため、釣り糸は切れないような工夫を施す。椰子の木の繊維をより合わせ、表面に樹液を塗りつける。すると、現地の漁師が「ミッシー」と呼ぶ、直径2~2.5ミリの丈夫な糸となる。
本来はサメやマグロといった大型の魚を獲るために作られていた。500~800メートルを1巻として、2、3巻をカヌーに設置している。

出港は日没後、おおよそ日の出1時間後に村に戻ってくるようなスケジュールでシーラカンスを狙う。獲物を逃さないよう、照明の類は一切用いない。夜間、手探りで漁をする。
そしてシーラカンスがかかった後は、根気強く手繰り寄せる。純粋にシーラカンスVS漁師の力比べだ。
沼津港深海水族館で僕らは、約12分の映像を見ることができる。その中で1981年12月、1体を釣り上げた様子が次のように紹介されている。第1次調査隊が翌1982年1月に日本に持ち帰った大きなシーラカンスだ。
「日没前に小型のカヌーで漁に向かうコモロの漁師たち。日中は水深200メートルより深いところで、ひっそりと暮らしているシーラカンスですが、夜になるとエサを求めて浅いところに上がってきます。漁師たちは、その生態を昔から知っていたようです」

「1981年12月31日、シーラカンスとの激闘が始まりました。150メートルの深い海から釣り上げるのに8時間、ついに大型のシーラカンスが釣り上げられたのです」
■夜学で写真を学ぶ
2025年10月1日午後、映画カメラマンの堀田泰寛さんから指定された東京・杉並の喫茶店に向かう。
定時少し前に着いたが、近くにお住まいとのことですでに奥様と一緒に着席していた。ネットで顔写真を確認しており、たっぷり蓄えた口ひげとあごひげから一目でご本人と分かる。
アポ入れの際のやりとりで、しっかりと話を聞きたいことに加え、写真や関連資料があったら拝見したいと伝えていた。堀田さんからは「取材趣旨に沿う、生々しい話ができるかどうかは、分かりませんが精一杯やってみます。シーラカンスに関する資料、写真も含めて多少はあります」との返信をもらっていた。
名刺交換を済ませた後、堀田さんが持参した資料を確認する。その中には、シーラカンスに関する書籍や堀田さんが寄稿した雑誌などが入っていた。さらに沼津港深海水族館が持っているのとは別の学術調査隊による冊子もあった。1984年1月に出発したシーラカンス学術調査隊の第2次隊についていまだ「計画」として記されているから、沼津のものよりも古い。
また資料には、1984年1月に調査隊とシーラカンス解剖解析委員会が開いた「第1回シーラカンス調査・研究シンポジウム予稿集」というものがあった。
第1、2次隊の調査概要や現地漁師による捕獲方法に加え、解剖とCT撮影の記録などが載っている。特に予稿集は、調査隊のコモロでの活動を知るうえで大いに役立つ。
非常にありがたい。
■脳にも焼き付いている44年前の記憶
インタビュー内容に入る前に、堀田さんの経歴を先ほどよりも詳しく記しておく。1939年(昭和14)8月に、当時は日本領だった平壌に生まれた。敗戦にともない6歳で引き揚げた後、静岡県立沼津工業高校で学ぶ。
卒業してからは東京都の公務員になり、工業高校の機械実習を指導するなどした。ほどなく仕事をしながら、夜学部専門の国立の千葉大学工業短期大学部写真学科に通い始めた。
同大修了と同時に科学映画のパイオニアだった日映科学映画製作所(「オール」に社名変更した後、2023年に解散)に入社。24歳からカメラマンへの道を目指し、5年の在籍を経て、フリーに転身する。黒木和雄監督の映画『日本の悪霊』(1970年製作)で、映画カメラマンになった。
2025年10月時点で86歳だったが、とてもお元気で、メール通りに「精一杯」話してくださった。そしてコモロ諸島に向かった44年前の記憶が鮮明だったことに僕は驚かされた。特にカメラのファインダー越しに目にした光景の描写が生き生きとしている。

自ら写してきたフィルムのコマが、脳にも焼き付いているかのようだ。それを引っ張り出すから、長い年月を経ていたとしても、全く色あせていない。まさにカメラマンの語りだ。聞いているうちに、堀田さんの世界に引きずりこまれる。
■3つの選択肢
ありきたりながら、堀田さんが調査隊に加わった経緯から聞いた。堀田さんは1981年12月出発の第1次隊だけでなく、1984年1月出発の第2次隊にも参加している。
「カメラの整備のために、なじみの機材屋さんに立ち寄りました。そうしたら知っている製作関係の方から『シーラカンスの調査でアフリカに向かう人たちが、カメラマンを探している』と聞きました。『えっ』と思いましたよ。シーラカンスが貴重な魚であることは知っていましたから。他でもない、その調査だというから、代表の篠之井さんに会ってみることにしました。
当時、僕は3つから仕事を選ぶことができた。
ひとつ目はよく仕事をしていたプロダクションからきた、ソロモン諸島の漁民たちを民俗学的に撮影する依頼。2つ目は、省エネルギー問題をテーマにしたテレビの仕事で、3つ目がシーラカンスだった。プロダクションの仕事はいつもの仲間とやるから安心で、ギャランティーもだいたい分かる。
世界的な関心事項になっていた省エネ問題で、各国を回るのも面白い。そんな考えを持ちながら篠之井さんに会ったら、『12月の出発に向けて準備を進めているけど、コモロが受け入れてくれるかは分からない。そういう状況だけど撮影をやってくれないか』と言われました。
不安定な契約にちょっと逡巡しましたが、『シーラカンスに立ち向かう』というのが魅力的で、参加を決めました」
そのような状況であれば、迷うのは当然だ。先述のようにコモロ諸島は政情のこともあり、篠之井さんも「行ける」と断言できない。
堀田さんが、それでも面白いと感じてメンバーに加わる選択をしなかったら、僕がインタビューすることもなかった。心の中で、44年前の堀田さんの果敢な決断に感謝した。
■漁村での隊員生活
第1次調査隊は1981年12月に日本を発ち、コモロ諸島で約1カ月活動した後、1月に帰国している。毎日の活動はどんなものだったのだろうか?
「ベースキャンプは、首都モロニ近くにあるハンサンブという漁村に置きました。
そして、その拠点から我々は常に一体で動いていました。単独行動は許されません。何かトラブルが起きたら、受け入れてくれたコモロ政府に迷惑をかけてしまうからです。
大きな仕事としては、漁師たちへの呼びかけがありました。コモロの放送局を通して、ラジオで呼びかけてもらう。『シーラカンスを釣ってくれ。釣った個体は、我々のほうで引き受ける』。こうした放送をモロニがあるグランドコモロ島だけでなく、他の3つの島の漁師たちにも伝えました。
ハンサンブの長老に会って許可を得て、シーラカンスを釣るために漁師を雇うこともしました。確か6人だったかな。彼らに毎晩、海に出てもらった。そして戻ってきたら、どんな魚を釣ったかを海岸で調べました。
ハンサンブ以外の漁村にも、『シーラカンスを釣ってくれ』とお願いに出向いています。実際に捕獲してくれたのはミツアミューリという村の漁師でしたが、他にはイコニ村とかを回りました。また、村々で過去にシーラカンスを釣った実績があるか聞き取りました。僕はこれらの活動を16ミリカメラで撮影しました」
デジタル撮影になった今だとSDカード1枚で数時間分の映像を記録できるが、1981年はフィルム時代だ。全く勝手が違う。
「フィルムは何万フィートとたくさん持って行きました。メインのカメラはドイツ製のアリフレックス16SR。当時の最先端カメラです。サブがキヤノンのスクーピック。いまのデジタルとは違うけど、比較的ぱっと回せるタイプです。
同じく調査隊員の小林一平さんが、長いポールにつけた録音機で音声を録っていました。代表の篠之井さんには、ドキュメンタリー映画を作りたいという想いがあったわけですから、機材はしっかりしていましたよ」
■「シーラカンスが獲れたぞ!」
僕は2022年6月、中東ヨルダンに2週間ほどの撮影出張に出かけたことがある。現地で活動する日本人を映像におさめる仕事だった。できる限り事前に撮影スケジュールを組んだが、どうしても現場対応でしのぐしかない場面も多かった。
日本国内での撮影だと、それこそ分刻みの予定を記入している香盤表通りに動けるのだが、海外は勝手が違う。「出たとこ勝負だ」と腹をくくって前進するしかなかった。
44年前だと、日本出発前からコモロ政府に依頼し、漁師にシーラカンス捕獲を依頼することは到底無理だったろう。実際に顔を見せてお願いしないと、ことが進まない。誠意を見せて信頼されて初めて動く世界なのだ。
ここまでの会話で堀田さんの口も滑らかになってきた。シーラカンスの撮影秘話を聞き出すタイミングと定め、捕獲されて運ばれてきた12月31日のことを聞いた。
「これは本当に予想もしない瞬間にやってきたのです。その日も、いつものごとくハンサンブの村に下り、漁師が釣った魚の確認をしました。どんな種類かと大きさを記録する様子を、僕は16ミリカメラで撮りました。
それが終わり、『もうすぐ帰国だな』というゆったりした雰囲気の中、宿舎に戻っていった。すると、向こうから『おー!』という声が聞こえた。隣の小林さんが『叫んでいるけど、何だろうな』と反応していた。よく分からないまま少し早足で向かうと、今度ははっきりとした声で『シーラカンスが獲れたぞ!』と聞こえたんです。
みな『えっ!』と驚いて、駆け足になった。たどり着いて宿舎の2階に上がった。広間には、現地のコモロ人やフランス人がいっぱいいた。『どうしたんだ?』と聞くと、『シーラカンスが獲れたんだ!』と」
■魚のどでかいのというより、怪物
堀田さんの口調が熱を帯び、ベテランカメラマンならではの描写が始まった。
「前を覗くと、まさにそれが、どーんとあった。魚のどでかいのというより、怪物と言ったらおかしいけど、そんなほうが近い。そして、オーラがぶわーっと立ち上がっていた。シーラカンスから天井にかけてね。そこにいる人たちも呆然としていた。
事態が呑み込めてきた頃、鈴木さんらが採血を始めた。帰る直前だからフィルムはほとんどなくなっていたけど、こういう時のためにスクーピックを持っていた。
スクーピックには3分ほど撮影できる100フィートのフィルムを使うのだけど、これが10本分あった。それが良かった。そのうち1本を準備し、カメラを構えた。そして、こう鈴木さんに声をかけたんだ。
『とにかくこれを克明に撮る。頭の先からお尻の先まで克明に撮る。そのためには、どういうところをどういう風に見せたいんだ。言ってくれ』」
■気概が込められた言葉
まさに怒濤の語り。それまでは、「です・ます調」で話をしていたのが、「だ・である調」に一変した。体温が1、2度上がった感じだ。口からぽんぽん言葉が出てくる。
そして最後に出てきた「克明に撮る」の「克明」という言葉の選択が味わい深い。まさに、そのように撮ろうとする、堀田さんの気概が込められている。
「僕は撮り始めた。まずは目。エメラルドグリーンなんだよ、綺麗な。鈴木さんに『この綺麗な目がどう動くか、触って動かしたらどうですか』と声をかけた。次に彼が胸ビレ、背ビレ、尾ビレなどを一つずつ観察するのを克明に撮った。
全部を撮り終えて、鈴木さんに『いいですか?』と言って終わりにした。さっきまで生きていたシーラカンスの生態として観察できるものは、全部記録したよ。
興奮しながらも、冷静な眼差しではいたね。プロフェッショナルとしての意識は、その時もあり、残りのフィルムを計算して撮影していた。いくら回しても平気な今のビデオとは違うから」
撮影シーンが終わると、堀田さんも落ち着いてきた。この後の述懐は、少ししみじみした口調となった。
■僕の目にもオーラが見えた
「撮影するシーラカンスの傍らには、後で名前を知ったスーレ・アスマニ親子がいた。彼らはシーラカンスの口に(釣り針の)フックをかけてミッシーを持ったまま、超然としていた。決して『俺が獲ったぞ』と誇る顔でなく、じっとしていた。
中でもシーラカンスの目とオーラは鮮明に覚えているよ。エメラルドの目は、宇宙の天体と結びついているような気がした。シーラカンスから出ていたオーラは、天井まで噴き上がっていた。圧倒的にすごい、音を立てているように感じるほどだった。
あのオーラこそ、絶滅したとされたけど太古から生き抜いていた、シーラカンスそのものだったんじゃないかな」
エメラルドグリーンの目を見開いたまま、オーラを漂わせるシーラカンス。実に神秘的だ。シーラカンスから「オーラがぶわーっと立ち上がっていた」と最初に聞いた時、僕はどうにもピンとこなかった。
しかし、堀田さんが身振り手振りもまじえてする熱弁を聞いているうちに認識が変わる。脳内に再現したコモロのシーラカンスからもオーラが立ち上がってきた。生命力にあふれた生き物のみが持つ、強くて濃いオーラが。

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高野 真吾(たかの・しんご)

ジャーナリスト

1976年生まれ。埼玉県川越市出身。早稲田大学政治経済学部在学中に、早稲田マスコミ塾に入って文章を書く面白さに目覚め、1998年に報道機関に入社。社会、経済、国際ニュースに幅広く携わりながら、次第にネットニュースにも活動の幅を広げる。20代からマカオ、韓国、ベトナムなどの海外でカジノを経験してきた。

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(ジャーナリスト 高野 真吾)
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