「豊臣兄弟!」(NHK)では秀吉(池松壮亮)が城持ち大名となり、弟・秀長(仲野太賀)と共に家臣を新規採用する展開に。古城探訪家の今泉慎一さんは「新しい家臣の中には城を設計する才能を発揮し、秀吉・秀長を助けた武将もいた」という――。

■「築城名人」が手がけた数々の名城
第12回:赤木城(三重県熊野市)
「豊臣兄弟!」(NHK)第18回では、秀吉・秀長兄弟のもとに新たに集結した武将たちが描かれる。有名なところでは石田三成、そして藤堂高虎(とうどうたかとら)だ。
藤堂は歴史好きにとっては、加藤清正とともに「二大築城名人」としても知られている。秀吉、家康という2人の天下人の下で、実に生涯で20以上もの城の普請を担当している。身の丈6尺2寸(身長約190cm)という日本人離れした屈強な体を持っていたことで知られるが、「現場監督」としても、生涯で最も多くの城を築いた戦国武将だといってもいいかもしれない。
高虎時代のものではないが現存天守が残る宇和島城(愛媛県宇和島市丸之内3)、海水を引き入れた水堀の今治城(愛媛県今治市通町3‐1‐3)、落差約30mの高石垣を誇る伊賀上野城(三重県伊賀市上野丸之内106)。さらには江戸城(東京都千代田区千代田1‐1)の普請奉行まで務めている。
■秀長が治めた紀州で城を築いた
以上は徳川政権下の築城だが、豊臣政権時代の1585(天正13)年、和歌山城(和歌山県和歌山市一番丁3‐3)が高虎の城普請“デビュー作”だ。が、しかし、こちらは羽田正親、横浜一庵(良慶)と一緒の複数人体制。しかも完成直後に赴任した城代・桑山重晴により改修が加わっている。
それから4年後の1589(天正17)年。高虎の普請“ソロデビュー”作が誕生する。
その場所は意外にも、紀伊山地の山中の僻地にあった。
■小規模だが小技の効いた名城
続日本100名城にも選定されてはいるものの、赤木城(図表1:三重県熊野市紀和町赤木122)を実際に訪れたことのある人はかなり少ないのではないか。紀伊国とはいっても、その中心となる和歌山城と真反対の紀伊半島の東側。しかも開けている沿岸部ではなく内陸。現在でも、車でアクセスは可能なものの、カーブだらけの山道を抜けていった秘境にある。
■高虎の「築城の才能」が光る
赤木城は比高30mほど。主郭は三方に伸びる尾根が集まる小ピークにあり、一見、自然地形を活かした土造りのシンプルな城のように見える。斜面は急峻で段々に曲輪が設けられている場所もあり、これらだけでそこそこの防御力を発揮できそうでもある。
麓からチラリと見えているが、赤木城の見どころはなんといっても石垣。城下の屋敷があったとされる東側からの登城路を登ると、まず東郭の門跡が見えてくるが、その基部にもさっそく石垣が見える。
急坂を登り切った先を門で塞ぐ。突破しても両脇の曲輪から挟撃できる。
城域は周囲500mにも満たないほどのコンパクトな城だが、このように小技の効いた構造が随所に見られるのが赤木城の特徴だ。
■待ち受ける蟻地獄のような虎口
門を突破すると、今度は直線的に伸びる尾根。ただし片側は谷で、もう一方は一段上に幅の広い曲輪が位置し、脇をたやすく通過することはできない。さらにその先には、真正面に石垣が立ちはだかる。
寄せてくる敵を本丸から狙い放題。バタバタと倒れ、谷間へ転げ落ちてゆく姿が目に浮かぶようだ。石垣が上部のみで、下部は土を削った切岸になっているのは、技術的な問題か、資材としての石垣が足らなかったせいか。
この石垣を正面突破するのは、まず不可能。主郭へと攻め込むには迂回(うかい)するしかないが、そこは折れ曲がった虎口が、パックリと口を開けて待ち受けている。まるで蟻地獄(ありじごく)のように。
■赤木城で最も技巧的な遺構
その先でもさらに、高虎の築城名手ぶりにうならされる。Uターンするように180度逆向きに折れたかと思うと、さらにもう一段上にも二度、L字の折れ。
虎口の連チャンだ。ここにも門が設けられていたという。
高虎の築城術でしばしば指摘されるのが、角ばっていて方形に近い単純な形状の曲輪が多いこと。赤木城もその例にもれないことは縄張図を見ればよくわかる。
ただし、曲輪間の要所要所はこうしてしっかりと虎口や門で固めてある。出入り口が少ないのも高虎の城の特徴のひとつだが、この点も赤木城はあてはまる。
■西尾根の石垣群も必見ポイント
最初に述べたとおり、赤木城は主郭を中心に三方に尾根が伸びている。西尾根は東尾根より幅が狭く、両サイドは断崖。その上に石垣を積み増して比高を稼いでいるのは、主郭の南面と同様だ。
西尾根には四段の曲輪が連なっているが、上の二段からは建物の礎石も発掘されている。また、最上段の曲輪からは食物などを保存する室(むろ)か水溜めらしき石組みも見つかっている。
このように、東と西の尾根は手が込んでいるのだが、もう一方の北尾根はというと、意外なほどあっさりしている。
主郭より一段下がった北郭は地面もやや傾いている。他の曲輪がほぼ水平に削平されているのに比べると、やや造りが甘い。
ただし、さらに下ると巨大な堀切が一条。里があるのはあくまで他の二方で、それらからの方が明らかに登りやすい。警戒すべきは東と西で、北側の守りはこれで十分、という合理主義的な判断なのかもしれない。
■秘境に本格的な城を築いた理由
以上のように、赤木城はコンパクトながらかなり技巧的で、高虎の築城術をギュッと凝縮したような城だ。ではなぜ、高虎は石垣もふんだんに用いた凝りに凝った城を、このような山中の秘境に築くことになったのか。
秀吉が天下の覇権を握り、秀長が紀州を拝領した後の1586(天正14)年8月、この地で大規模な一揆が起こる。秀長は自ら北山へ向かい、一揆を降伏させる。さらに1587~89(天正15~17)年ごろ、秀長が家臣の高虎に命じたのが赤木城築城だった。目的は一揆の芽を完全に摘むことで、赤木城は降伏した人々も徹底的に弾圧するための拠点。ゆえにここまでの本格的な城が築かれたというわけだ。

赤木城のある北山地域は、古来より銅など鉱物を産出し、雨量が多く森林も豊かなため木材の産地でもあった。それらの利権を確実に手中にするために、単に降伏しただけでは許さず、徹底した弾圧を命じたのだろう。蓄財に長けていた秀長らしいエピソードだ。
■秀長と高虎の主従関係に注目
北山一揆が「豊臣兄弟!」でどこまで描かれるか現時点では不明だ。赤木城築城を命じられた際、はたして高虎は「とんだ主君を持ってしまったな……」と思ったのか。あるいは「これは腕が鳴るわい」と張り切ったのか。
いずれにせよ、普請ソロデビューによって得られた経験と知識が、のちの「築城の名手」の原点となったことは間違いないだろう。訪れるのは大変だが、赤木城を見ずして高虎の、いや戦国の城を語るなかれ、だ。

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今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)

古城探訪家

1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。
『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。

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(古城探訪家 今泉 慎一)
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